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<インタビュー>生沢佑一、不思議な縁で紡がれたタフでしなやかな52年の音楽人生を語る(前編)

52年のキャリアを持つシンガー・生沢佑一が、ビルボードライブ初登場となる公演【生沢佑一50+2周年Live】を2026年9月29日ビルボードライブ横浜にて開催する。音楽キャリアを総括するこのステージは、織田哲郎、春畑道哉、大黒摩季、岡田士郎、キング・クリームソーダといった豪華ゲストが駆けつけて、一夜限りのスペシャルなライブとなる。今回、ライブに向けて、時代ごとに活動形態を変えながら歩んできたその歴史を、ロングインタビューでじっくり辿りながら、語っていただいた。なんと、こうしたインタビューにお応えいただくのはほぼ初めてとのこと。かなり貴重でなお且つ最高に興味深いエピソードの数々を是非熟読いただきたい。(Text:岡本貴之/Photo:福政良治)
「歌手になりたい」とは思っていなかった――偶然のデビューから始まった音楽人生
――今回、ビルボードライブでのステージへ向けて、生沢さんの52年の音楽キャリアを振り返っていただこうと思います。生沢さんは1974年、16歳の時に「弾ともや」として「土曜の午後のロックンロール」でデビューしていますが、どういう流れでデビューに至ったんですか?
生沢佑一:僕が14歳、中学2年生の頃、『そっくりショー』という、いろんな有名人のそっくりさんを集めた人気テレビ番組があったんですけど、それを観た母が僕のことを「西城秀樹に似てる」とか言い出して、番組に応募したんですよ。母はエルヴィス・プレスリーが大好きで、ポータブルプレイヤーで毎日レコードをかけていたりしたので、それはよく聴いていたんですけど、歌謡曲は銭湯に行ったときに流れていたのを聴いていたぐらいで、僕は西城秀樹さんのことも知らなかったんです。でも番組から出演依頼のハガキが届いたから、「オーディションに行こう!」って、母に連れて行かれて、地元・大阪のテレビ局まで行ったんです。そこで、西城秀樹ファンの同級生にレクチャーしてもらって覚えて行った「情熱の嵐」を歌ったら、たまたま優勝してしまって(笑)。そこで終わりだと思ったんですけど、今度は全国放送でそれをやるということを初めて聞いて、「えー!?」みたいな感じで。それで東京に行ってテレビで歌って、優勝はできなかったんですけど、「特別賞」をいただいたんですよ。それを観たレコード会社の方にその場でスカウトされて、デビューすることになったんです。
――即スカウトされるということは、相当目立っていたんでしょうね。そのときは「歌手になりたい」という気持ちはあったんですか?
生沢:まったくなかったです。音楽は好きだったですけど、プロの歌手になりたいとかは、もうまったくなかったので、スカウトされたときは不思議な感じでしたね。最初は断ってたんですけど、プロデューサーさんが大阪まで何度も話に来てくれたんですよ。その方はキャロルとか大橋純子さん、フィンガー5とかを手掛けた方で。
――生沢さんがデビューしたフィリップス・レコードのプロデューサーさんですね。
生沢:そうです。その方がもう何度も家に来られたんで、まあちょっとやってみようかなっていう気持ちになって、それで上京したっていう感じですね。
――16歳ですから、上京して学校に通いながらレッスンを受けたりしていたわけですか。
生沢:目黒の中学校に通いながら、毎日レッスンを受けていました。だから中学のイメージはもうまったくないですね。もうほとんどレッスンばっかりだったので(笑)。そこから16歳でデビューしたんですけど、ある意味興味半分ですから、プロフェッショナルとしてこういうシンガーになりたいというのはなかったですね。ただ、キャロルの矢沢永吉さんを見て、「かっこいいな、俺もこういうバンドをやりたいな」みたいな気持ちはありましたけど。当時、プロデューサーは、僕を含めて何人か集めて、“アイドル版のキャロル”を作ろうと思ってたらしいんですよ。だから僕は白い革ジャンを着て、当時ローリング・ストーンズのキース・リチャーズが使ってた「アンペグ」の透明のギター(クリスタルギター)が楽器店に日本に3台だけ入ったというので購入していただいて、それに合わせて透明のアンプも作ってもらって。
――「土曜の午後のロックンロール」のジャケットに写ってるのが、そうですよね。透明のギターは知ってますけど、透明なアンプなんて見たことないです。
生沢:あれは特注なんです。これがめちゃくちゃ重くて大変なんですよ(笑)。ギターは、当時はまだ弾けるというほどじゃなかったですけど、デビューするために習って、テレビに出たときはワンポイントでギターを弾きながら歌ってました。

――結構アイドル的な存在だったんですか。
生沢:アイドルですね。当時はもうアイドルしかいなかったって言ったら変ですけど、僕と城みちるさんとか、あいざき進也さんとか、郷ひろみさんは西城秀樹さんとかと一緒でちょっと上ですけど、女性だと山口百恵さん、森昌子さん、桜田淳子さんの「花の中三トリオ」とか、もう本当にアイドル全盛期の時代ですね。
――完全に芸能界ですね。
生沢:まさしく芸能界です。僕は洋楽しか知らなかったので、ザ・芸能界っていう雰囲気が、どうも性に合わないというか、うまく馴染めなくてですね、そこから1年間、我慢してやるんですけど、どうしても自分で耐え切れずに夜逃げしたんですよ、実は(笑)。
――夜逃げ!? 書いて大丈夫ですか、それ(笑)。
生沢:大丈夫です(笑)。当時プロダクションの社長をやっていた方と一緒に合宿をしていたんですけど、もういてもたってもいれなくてそこから出て、そのままアメリカに行ったんですよ。
――いきなり海外に。じゃあ本当に全部仕事を放り出してみたいな
生沢:そうですね、もう大変でしたけど。全然英語も喋れなかったんですけど、たまたま飛び込んだその旅行代理店の方の知り合いが日系の人で、アメリカでそこそこ売れてるグループだったらしいんです。「そこを訪ねて行ったら?」って言うので、パサデナっていうロサンゼルスの北東部の方で、もう日本人は全然いないようなところに訪ねて行ったんです。そしたらその人がアメリカツアーをするので、ラッキーなことに「その間住んでてもいいよ」って言われて住まわせてもらって。それで、たまたまバンドの演奏をしてるところに遊びに行ったら、「ちょっとやってみない?」って誘われて歌ったりして、アマチュアバンドを組んで練習したりして仲間ができて。でも当時は学生ビザで3ヶ月しか滞在できなかったので、それでまた日本に帰ったんです。

――そこから日本で活動を再開したわけですか。
生沢:ただ、不義理をして海外に行ったので、レコード会社としてはちゃんとケジメをつけてほしいみたいなことで、日本フォノグラム(フィリップス・レコード)所属のローズマリーというグループからちょうどボーカルが抜けるので、代わりにやってくれみたいなことで、加入したんです。
――ローズマリーは、今回ライブのゲストとしても出演する、元オックスのギタリスト岡田士郎さんが作ったバンドですよね。
生沢:オックスの 2人、ギターとベース(福井利男)が作ったバンドなんですけど、そこからボーカルが抜けて僕が参加しました。
――それは、当時ブームを巻き起こしたGS(グループ・サウンズ)の流れを汲んだバンドだったのでしょうか。
生沢:どちらかというとそうですけど、当時イギリスでベイ・シティ・ローラーズが大ブレイクする少し前ぐらいで、ローズマリーは「これっぽいのをやろうよ」みたいな感じで、同じタータンチェックの衣装着て、「またアイドルじゃん!」って(笑)。
――それが嫌で海外に行ったのに(笑)。
生沢:最初はちゃんとしたバンドだったんですよ。これだったらいいなと思ったんですけど、そしたらリーダーが和製ベイ・シティ・ローラーズみたいな方向性を打ち出して、「結局またアイドルか」みたいな。「可愛い人よ」っていう、元はクック・ニック&チャッキーというグループの曲を、ディスコ調にアレンジして流行らせようってカバーして。ディスコで使われたりっていうノリで、ヒットしたかどうかはちょっとわかんないんですけど。
――そこからローズマリーの活動がしばらく続いたんですか。
生沢:そうですね。ただ本業では食べていけないので、当時夜の六本木とかで流行っていた、お酒を飲みながら踊るサパークラブというところがあって、そこで1時間ステージを 7回ぐらい夜から朝までやってたんですよ。そこにはいろんな有名芸能人やスポーツ選手、文学系の方、大手プロダクションの社長さんとか、いろんな業界の人が遊びに来ていたんです。そこですごく稼げるようになっていたので、昼夜が逆転して、むしろ昼間の音楽活動が趣味みたいになってきたんですよね。
音楽人生を変えた「ラヴ・イズ・オーヴァー」との出会い
――まだ20代前後ですよね? すごく華やかな世界に身を置いて、浮足立ったりしませんでした?
生沢:浮足立ってました(笑)。ただ、それもやっぱり自分の中で何か違うなって思うようになってきて。それでもう一回、自分のソロでやりたいっていうことで動き出して、ポリドールっていうレーベルのプロデューサーに声をかけていただいて、一緒にやることになったんです。その頃は、ソウル系や R&Bの踊れる音楽よくやっていたので、日本語でソウル・ミュージックをできないかなということで、そういう日本語ソウル的な良い楽曲で埋もれてる曲がないかなって探していて、出て来たのが「ラヴ・イズ・オーヴァー」だったんです。
――後に欧陽菲菲さんが歌って大ヒットした曲ですね。どういう経緯で歌うようになったんですか。
生沢:当時「竜とかおる」というフォークデュオ(「ラヴ・イズ・オーヴァー」の作詞作曲者・伊藤薫が在籍)がいて、「この曲がいいんだけど、絶対日本では売れないんだよね」って言われてた曲が「ラヴ・イズ・オーヴァー」だったんです。欧陽菲菲さんがB面として出していた曲なんですけど(「うわさのディスコ・クィーン」のB面として発売)それを聴かせてもらったら、すごくいいなと思って、僕はライブで毎日歌っていたんですよ。それを聴いた業界の方、大物歌手の人も含めていろんな方から、「この曲いいね!」って言われて徐々に口コミで広がって、まだ世の中で大ヒットする前に、銀座とか巷で8トラックのカラオケとか飲み屋の弾き語りで歌われるようになったんですよ。それで、僕がポリドールの新レーベルから満を持して出そうって言ったら、待ったがかかって。欧陽菲菲さんが改めてドーンと出すっていうことでブームになって、ある程度広がってから、男性バージョンの第1弾として僕が歌ったんです。
――今でも世代を越えて歌われている曲ですが、最初は生沢さんが歌っていたのが口コミで広がったんですね。
生沢:でも本当、冗談抜きで誰もが「これは良い曲だけど日本では絶対無理だ」って言ってたので。だけど「これは絶対良い曲なんで」って言って、毎日歌ってたら案の定みんなが良い曲だって言うようになったので、自分は間違ってなかったなっていうのはありましたね。そのとき僕は25歳だったんですけど、68歳にして今が一番良い「ラヴ・イズ・オーヴァー」を歌えていると思っています。
ハードロックへの憧れから、TWINZER、そしてコーラスの日々へ
――ソロになってソウル系の曲を歌うようになってから、今度はハードロックへと向かって行きますが、それはどんな流れがあったんですか。
生沢:もともと、10代からハードロックが好きだったんです。小さい頃からエルヴィス・プレスリーを聴いて、中学生のときにビートルズが流行って聴き出して、そしたら今度はレッド・ツェッペリンが出てきて「こんな音楽があるのか!」ってびっくりして、そこからディープ・パープルを聴いたりとか、基本的にはハードロックがずっと好きだったんですけど。
――じゃあ影響を受けたボーカリストはロバート・プラント、イアン・ギランですか?
生沢:最初はロバート・プラント、イアン・ギランに始まったんですけど、ハードロックでもブルース寄りなフリーのボーカリスト、ポール・ロジャースが一番影響を受けたかもしれないですね。基本はブルースがあったんでしょうね。その頃、もう一回アメリカに行ってるんですよ。その時はT-REXのマーク・ボラン夫人だったグロリア・ジョーンズさんに「アメリカでやってみないか」ってスカウトされて、向こうでマネジメントも見つかってやろうとしたんですけど、プロデューサーと飲みに行ったバーに出演して歌っていたセミプロみたいなボーカリストの歌を聴いたときに、もうすごかったんですよ。そのときに、自分の世界観が変わったというか、ある意味ちょっと天狗になっていたのかナメていたのか。「いや俺、これはちょっとアメリカでは無理だな」って思ったんですよね。それでもう一気にデビューする気が失せてしまって。レコーディングもして、活動スケジュールも全部決まっていたんですけど、「これはもう絶対無理だ」と思って、キャンセルしたんです。
――そこで初めて挫折を経験したわけですね。
生沢:思いっきり挫折しました。それでまた日本に戻って、『ビーイング』の創業者・長戸大幸さんに声をかけていただいたんです。当時のビーイングはまだTUBEとかもいなくて、本当に小さな事務所でした。
――ビーイングは先ほどお話に出た岡田士郎さんも関わっていらっしゃいますよね。
生沢:そうです。士郎さんが大幸さんと友人で、マネジメントも含めて手伝っていたんですよ。僕は士郎さんの紹介で大幸さんと出会って、何かやろうよみたいな形で動いていたんです。そこからTWINZERがデビューするまでは結構かかるんですけど。当時僕はハードロックをやろうと思っていたんですけど、大幸さんのプロデュースはちょっとイーグルス的な、カントリーチックな感じでやった方がいいみたいなイメージがあって。それで何曲かいろんなことをやったんですけど、なかなかうまく合わずに。そんなときに、TUBEの春畑(道哉)が、「これはどうですか?」って書いてくれたのが「LEAVE ME ALONE」という曲で、それを歌ったときに、「あ、これだ」と思ってデビュー曲に決まったんですよ。それで次は、CMとタイアップするというので、カップリングで織田哲郎さんが書いた「SUMMER DAYS」のタイトルを「OH SHINY DAYS」に変えてA面にして2ndシングルとして発売したんです。それでテレビにも出してもらいましたし、当時としてはかなり売れました。まあこのときはもう、ヒットチャートの1位から10位までビーイングみたいな時期でしたから(笑)。
――確かにそうでした。生沢さんはビーイング所属アーティストのコーラスとしても、数多くの作品に参加していますよね。
生沢:僕はTWINZERの前から、TUBEから始まって、デビューする新人も含めて全部コーラスをやってたんです。 B'z、T-BOLAN、大黒摩季、WANDS、ZARD、もうとにかく出てくるアーティスト全部やってましたね。
――それだけ色んなアーティストの曲でコーラスをやるとなると、いろんなパターンを歌わないといけないわけじゃないか?そこでボーカリストとして確固たるものを作ったという意識は当時ありましたか?
生沢:いや、もうとにかく朝から晩までコーラスをやっていたんですよ。ちょっと仮眠してコーラス、仮眠してコーラスというぐらい、もう怒涛だったんですね。だから自分がボーカリストとしてとか、これからどうすべきかとか、そんなことを考える時間がまったくなくて。とにかく目の前のことをこなしていくっていうことだけでしたね。シングル、アルバム全部やっていたので。
――この曲のレコーディングはすごく覚えてるな、とかそういう感じはあんまりないですか。
生沢:全然ないです(笑)。それに、前もって曲を渡してもらえるわけじゃなくて、ブースに入って聴いてすぐにやるんです。スタジオに行ったら大体 3曲ぐらいはレコーディングするので、もう今何をしてるのかがわからない(笑)。ただ、アーティストによっては、大黒なり稲葉(浩志)なり、T-BOLANとか、初期の彼らは一緒にスタジオに来て一緒にやってるから覚えてるんですけど、まだ新人でこれから世に出ていく人たちは、もうまったくわからなかったですね。
――そういう新人アーティストに、「どうやったらうまく歌えるんですか?」とかアドバイスを求められたりしたのでは?
生沢:そういうこともありましたけど、僕が思うのは、歌のときにあんまり思いを入れすぎて、例えば“愛してるよ”っていうことも、思いを込め過ぎて“愛してるよ”って歌ってしまうと、CDを買って聴く人たちにとっては、トゥーマッチになってしまうと思っているんです。まして日本の言葉って結構重いので、余計にその言霊っていうんですかね、サラッと言った方が入ってくるんですよね。だからレコーディングするときは、あんまりその思いを入れずに、素のままに、ただ声として出す、というイメージで歌っていたんです。テクニックよりも、そういう心情的なことをアドバイスをする方が多かったかもしれないですね。

――コーラスとTWINZERの活動を並行しつつ、ご自身はどういう方向に進んで行こうと思っていたんですか?
生沢:最初にお話ししたように、僕はプロになろうとかじゃなく、ただ音楽が好きで、言い方は悪いですけど興味本位で音楽業界に入ってしまったっていうところからスタートしたので、例えば今だと若い人がB'zの稲葉浩志みたいになりたいとか、そういう目指すものがあれば良かったんですけど、自分の中で目指すアーティストがいなかったので、そこが一番自分の中でしんどかったんですよね。
――例えばバンドで日本武道館のステージに立ちたいとか、そういう目標はなかったですか?
生沢:それもなかったですね。もういつでも辞めようと思ってた状況だったので。だから何かあったら自分がつまんなかったら辞めたりとか、すぐそっちに行ってしまうっていうと変な言い方ですけど。
――あんまり、執着がないというか。
生沢:ええ、まったくなかったです。
――逆に言うと、“こういうところで歌ってみない?”って声をかけられたら、割とフットワーク軽くやってきた感じですか?
生沢:そうですね(笑)。とにかく楽しそうだなと思ってやってたっていう感じなので。
――松本孝弘さんのROCK'N ROLL STANDARD CLUB BANDへのレコーディング、ライブへの参加もそうですか。
生沢:アルバム『ROCK'NROLL STANDARD CLUB』でも叩いていた、亡くなったラウドネスのドラマー、樋口宗孝と僕は同級生で親友だったんです。松本も稲葉も、当時ラウドネスの大ファンで、樋口と飲み仲間だったんですよ。それで、当時松本がやっていたラジオ番組で自分が子供の頃に影響された曲を毎月紹介していったときに、”じゃあこれをカバーしてアルバムを作ろう”みたいな話になって、そして“アルバムも出たし、じゃあこのままツアーをやろうよ”っていう、アマチュアバンドみたいなノリでやっていましたね。
――なるほど。それで1曲目にいきなりモントローズで始まるという、趣味嗜好まるわかりの選曲なわけですね。
生沢:なかなか渋い選曲するなって感じですよね(笑)。
後編へ続く
公演情報

【生沢佑一50+2周年Live】
2026年9月29日(火)
神奈川・ビルボードライブ横浜
1st stage open 16:30 start 17:30
2nd stage open 19:30 start 20:30
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