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エドゥ・ロボ インタビュー in 1994 powered by 『ラティーナ』

 いよいよ来月4月4日、1971年以来45年ぶりの来日公演を行うブラジル音楽の巨匠、エドゥ・ロボ。ブラジル音楽のなかでも、極めて個性的なナンバーを生み出した彼の鬼才ぶり、そして濃密なキャリアは先日特集記事でも紹介した通りだ。そして今回Billboard JAPANでは創刊60年以上を誇るコンテンポラリー・ワールド・ミュージック・マガジン『ラティーナ(Latina)』の協力のもと、1994年1月号に同誌に掲載された貴重な本人インタビューを転載公開。1993年にリリースされたアルバム『コフピアォン(Corrupião)』をきっかけに、そのキャリアや音楽業界へも言及するエドゥの言葉を、ぜひ楽しんで欲しい。

* * * * * * *

エドゥ・ロボにしか作り得ないブラジル音楽世界

 最近、巷のクラブで作品が珍重されているボサノヴァ・コンポーザーの筆頭に挙げられているのは、やはりエドゥ・ロボだろう。60年代に彼が書いたプロテスト・ソングがダンスのネタに使われてしまっているのだが、そんな俄かなブームに呼応するかのように、エドゥは8月、ブラジルでソロ・アルバムをリリースした。

 と書けば、まるでふたつの出来事には皮肉な関連があるように思える。でも実は、もちろん何の関係もない。それは、クラブ関係者には比較的ウケが悪い(?)という最新アルバムを聴けば一聴瞭然だ。70年代にアメリカへ渡り、以降、映画や舞台、バレエ音楽の作曲に専念し、たまにソロ・アルバムをリリースだけだったエドゥ。最後の作品からすでに10年近くも歌の世界から遠ざかっていたエドゥが、なぜ今、このアルバムなのか。

 彼が、この「シンガーとしてのアルバム」をレコーディングするに至ったのは、イヴァン・リンスとヴィトル・マルチンスが主宰するリリース元のヴェラス・レコードが、彼に制作上の完全な自由を保証したからだ。ゆっくりと時間をかけて熟された内容は、ブラジル音楽のさまざまな顔を組み合わせたもの。長年、サウンドトラックの作曲家として活動してきたエドゥは、音楽をより深く、幅広く、柔軟に作り出す術を会得したようだ。

 MPBのメインストリートから姿を消してしまっていた間の彼の歩み、新作『コフピアォン』誕生の背景などを、エドゥに直接訊いてみた。

エドゥ・ロボと映画/舞台音楽

──長い間、レコードの世界から遠ざかっていたけど、なぜかな?

エドゥ・ロボ:それは違うな。長いことソロ・アルバムを録音してなかったとは言えるけど、ずっと意欲的に活動してきているんだよ。レコードも5枚録音したから、平均して2年に1枚になるし。ただ、これは映画のサウンドトラックや、演劇の舞台音楽やバレエ音楽のレコードで、録音されたのは演奏された音楽のほんの一部だったんだ。実際には1曲が何時間にもわたる作品で、しかも大半の曲はレコードにはされなかったんだ。

──コンポーザーとして仕事をしたわけ?

エドゥ・ロボ:そう。僕は、始めからずっと、ミュージシャンになりたかったんだ。作曲する音楽家にね。歌は、なりゆきで歌っていただけで、アクセサリーでしかなかったんだよ。スタジオは好きだけど、代わりに歌ってくれる、いい人がいたなら、僕は聴くほうにまわる。何か失ったような気がするようなこともないだろうし。僕にとって大事なのは、一に音楽、二に音楽だから。

──映画や舞台音楽を書くのと、歌を書くのとは違う?

エドゥ・ロボ:もちろん、全く違う種類の仕事だよ。余り知られてないことだけど、映画音楽を書くには技術が要るんだ。ロサンゼルスに住んだ時、僕はラロ・シフリン(注:映画『ダーティーハリー』などの音楽を担当)らに師事して映画音楽の作曲を勉強したんだ。例え、たった30秒間の音でも、作曲なんだよ。よくできた映画音楽というのは、観客が気づかないような音楽なんだ。ブラジルには、こんな職業はないね。僕はずっと、心から楽しんで仕事してきたよ。

--では、映画音楽を書くのと、舞台音楽を書くのとは違う?


▲シコ・ブアルキ&エドゥ・ロボ
『神秘的大サーカス』(1983年)

エドゥ・ロボ:僕が書いた『神秘的大サーカス』(O GRANDE CIRCO MISTICO)は、バレエで、物語がなかった。というより、僕とシコ・ブアルキが書いた歌に基づいて、バレエが作られたんだが。舞台音楽も、これに似てると言えるかな。どうかな。ミュージカルなら、音楽から演劇が始まるわけだけど。舞台音楽と映画音楽の違いは、舞台は毎日少しずつ違うので、映画の場合ほどインスト部分の切れ目がはっきりしたものではないということだろうね。それに舞台では、いい結果を得ようと思ったらナマ音楽を使わなきゃならないが、映画はそうじゃない。

――サウンドトラックを書くのと、インスピレーションで歌を書くのとでは、どっちが好き?

エドゥ・ロボ:自分では、基本的に歌を書く作曲家だと思っている。たぶん、そっちのほうが好きなんだろう。でも、面白いのは、このふたつがひとつになる時だよ。『神秘的大サーカス』には、歌曲もインストの部分もあった。僕は歌の作家だけど、サウンドトラックを書くのも本当に楽しい。サントラは、創造性を磨くのにいいんだ。とはいえ、僕は一度もクラシック音楽家になろうと思ったことはないけど。ブラジルでは、音楽を勉強しているというと、すぐ、大衆音楽とは違った方向へ進み、壮大な交響曲を書こうとしているんだと思われがちだ。でも、実際は、自分の仕事に磨きをかけようとしているだけなんだ。勉強することによって、ハーモニーはより繊細になるし、もっと多くのことができるようになるんだよ。

――シコ・ブアルキのような優れた作詞家と仕事をするのは、どう?


▲「Nego Maluco」(LIVE)

エドゥ・ロボ:ブロジェクトものでは、彼はほとんどの僕のパートナーだ。シコと作った曲の90%は、舞台用のものだったな。そうじゃないのは、2曲ぐらいなものかな。そのうちの1曲は、今回のアルバムに入っている「ネゴ・マルーコ」だよ。というより、この2曲以外は、全部注文で書いたんだ。シコと仕事するのは、とても楽しいよ。僕が最初に曲を書いて、彼がそれに詩をつけるんだ。これは、僕にとっては最高の形だね。とはいえ、いつも始めにいろいろと打ち合わせはするんだけど。主人公はどんな奴だとか、誰が歌うかとか。僕が曲を書いてシコに渡すと、彼が詩をつける。その後、いつも小さな修正をするんだけど、シコの場合はこの修正が本当に少なくてすむんだ。彼には、元のメロディを最大限に活かして作詞するすごい才能があるんだよ。メロディに可能な限り奉仕するというのが、彼の執念みたいに思えるほどだよ。最近になって、アルヂール・ブランクとも仕事をしたけど、彼もシコと同じタイプの作詞家だ。すごく興味深い作詞家だね。

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──昔の話だけど、あなたを音楽の世界に誘ったのは、あなたのお父さんだった?

エドゥ・ロボ:あちこちにそう書かれたけど、そうじゃないよ。僕は本当は、音楽家になろうなんて考えてなかったんだ。大学は法学部だったし、ヴィオラォンは弾いていたけど、職業にしようなんて思ってなかった。ところが、気がついたら、そうなってた。ヴィニシウス・ヂ・モラエスのせいで。あるパーティで彼と知り合った時、ヴィニシウスは僕の曲に作詞してくれたんだ。その晩、そこで、僕は彼の共作者になった。今は残念ながら消えてしまった習慣だけど、あの頃のリオでは、皆がィオラォンを弾いて、歌を歌っていてね。僕が弾き語りで何曲か自作をヴィニシウスに披露したら、歌詞のない曲はあるかと尋ねられた。幸い、1曲あったんだよ。彼は気に入ってくれて、その晩のうちに作詞してくれた。大感激したよ。

──その曲はレコーディングされた?


▲Maria Bethânia「Só Me Fez Bem」

エドゥ・ロボ:うん。マリア・ベターニアがしたよ。「ソ・ミ・フェス・ベン」という曲で、その後、彼女と僕とで作ったアルバムにも録音した。ヒットはしなかったけど、僕にとってはとてもたいせつな曲だった。そんな具合に、ある朝起きたら、僕はヴィニシウス・ヂ・モラエスの共作者になっていてね。19歳の時だったよ。彼とは友達にもなって、当時すごく尊敬していたトム・ジョビン、カルロス・リラ、バーデン・パウエルなど著名なミュージシャンに紹介してもらった。皆の家に遊びにいっては、音楽を教えてもらったよ。まるでタダのバークレー・スクールみたいでね。しかもウィスキーまで飲めるんだから。そう、質問に戻ると、父は非常に稀にしか作曲してはいなかったんだ。父を通して、幾人かの人と知り合うことはあったけど、何と言っても僕の人生で決定的だったんは、やはりヴィニシウスとの出会いだったんだ。

──その時までは、主にどんな音楽を聴いていた?

エドゥ・ロボ:アメリカの音楽が多かったな。ガーシュインとか、コール・ポーター。その後、エルヴィス・プレスリーとかのロックだね。でも、アメリカの音楽から僕を完全に引き離したのが、ボサノヴァだった。ジョアン・ジルベルトのファースト・アルバムと、タンバ・トリオ、バーデン、それにレニー・アンドラーヂの初期のアルバム。ボサノヴァは僕の心を揺さぶったんだ。

--少し、最初の頃の話をしてくれる?


▲Elis Regina「Arrastão」

エドゥ・ロボ:気がついたら、19歳でファースト・アルバムをレコーディングしてたんだ。タンバ・トリオ、ナラ・レオンとコンサート・ツアーもやった。続いて、大規模なフェスティバルの時代が来て、エリス・レジーナが歌った僕の「アハスタォン(地引網)」が、第一回の優勝曲になった。その後、「ポンテイオ」も優勝した。当然、メディアは僕のことを大々的にとりあげ始めた。でも、あの当時から、僕は既にヒットなるものに対しては非常に懐疑的だったんだ。曲の1曲や2曲ヒットしたからって、誰のキャリアを作るもんでもないさ。重要なのは、常に作曲を続けることなんだ。人々に知れ渡るようになるまでに、長い時間のかかる音楽があるものでね。そういった音楽こそが、作者を本当にしっかり音楽の世界に根づかせてくれるんだよ、それはそれはゆっくりしたプロセスなんだけど、一度達成されれば、二度と後戻りすることはないんだ。

――ブラジルを出たのは、当時の政治事情が理由だった?

エドゥ・ロボ:それはひとつの口実だったかもね。つまり、僕はその前から国を出ようと計画していたんだよ。でも、コンサートの予定が詰まっていたり、当時のリオは居心地が良すぎたりで、実行を先送りにしてた。ところが、その間に世の中がどんどんヤバくなってきて。カエターノとジルが亡命し、シコ・ブアルキとジェラルド・ヴァンドレも出国した。たとえ、差し迫った脅威がなかったにせよ、何か亡命しなくてはいけないような雰囲気があったんだ。時代は本当に暗かったね。僕の目的は外国で音楽を勉強することで、2年間アメリカで、それを実行した。音楽的に成長しようと考えたんだ。

――ブラジルへ戻ってきたら、いろんなことが変わってた……。

エドゥ・ロボ:変わってたねえ。以前のように人々がやる気に溢れてはいなかった。リオも変わってしまった。でも、いちばん変わったのは、音楽市場だと思う。僕が音楽を始めた頃は、音楽がコマーシャルかそうでないかという側面は、余り問題にされていなかった。もちろん、そういうことがなかったわけじゃないけど、人々の最大の関心は、いかに新しいものを見つけるか、というところにあったんだ。いくら売れるだろうかとか、たいせつなことではあったけど、いちばんの問題ではなかったね。重要だったのはミルトン・ナシメントやジョアン・ジルベルトにレコーディングさせることで、売れればもっけの幸いだったんだ。いいかい、僕はレコードを売ることに対して、どうこう言うつもりはない。レコードってのは、もともと売るために作られるものだと思うから。僕が気に入らないのは、愚にもつかない分析をすることなんだ。これが当の作曲家にも悪影響を及ぼして、しまいには、どうすれば市場に自分の音楽をマッチさせられるのか、なんてことを考えるようにさせてしまう。創造のプロセスにとって、これは危険だと思うんだ。

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アルバム『コフピアォン』、そして日本での支持について

──最新アルバムについてだけど、作り上げるのはたいへんだった?


▲『コフピアォン』(1993年)

エドゥ・ロボ:いや、全然。これまででいちばん早く仕上がったアルバムかもしれない。しかも、何もかもうまくいったんだよ。ブラジルでの録音には3週間かけ、その後、1週間かけてロサンゼルスでミキシングした。出来映えには、とても満足しているよ。

──評論筋にも、聴衆にもウケがよかったね。

エドゥ・ロボ:きょうび、アルバムを作るのは宝くじみたいなもので、何が起こるかしれたものではない。けど、ジルソン・ペランゼッタとの共同作業は本当によかった。彼の音楽と僕の音楽との混ざり合いは、ファンタスティックだ。最初に出来上がりを聴いた時に思ったのは、あれが“極めてブラジル音楽的な音楽”だということだった。いい気持ちだったね。レコーディングの段階では分からないんだが、じっくり聴いたら、それが分かってきた。ある一定の道を何年も歩いてきた結果が、あのアルバムなんだ。ブラジル人以外の人間が作曲できるような曲は、ただの1曲も入っていないと僕は思うよ。別に愛国主義で言うわけじゃないけど、ブラジルの大衆音楽は、世界でもっとも豊かで重要な音楽のひとつだと思う。スペシャリストが作り、スペシャリストだけが演奏できる音楽なんだ。洗練されたブラジル音楽は、どんな人間でも演奏できるようなものじゃない。いつも、何らかの訛が残ってしまうからね。でも、残念ながら、このブラジル音楽が、今日にブラジルでは余り大事にされていない。なのに海外では珍重されているのが皮肉だね。

──アルバムがリリースされた今、次の予定は?

エドゥ・ロボ:ブラジルと世界でコンサートをやるよ。外国でもこのアルバムをリリースして、コンサート・ツアーに出るんだ。とはいえ、シンガーの生活に戻るというわけじゃない。ただ、自分の仕事を続けていくつもりなんだ。

--最近、60年代にリリースされた作品が、特に英国と日本の若者の間で、ダンス・クラブの音楽としてブームになっているようだけど、それについては?

エドゥ・ロボ:それについては、活字で読んだ。さっきも言ったけど、音楽市場はまるで宝くじの抽選だよ。僕は、自然発生的なものなら好きだ。このブームは、レコード会社の仕掛けには見えないね。僕の曲で若い人が踊るんなら、いいじゃないか。どうやって踊るのか、僕には想像もつかないけどね。でも、踊るというんなら、いいと思うよ。

――日本の人々に、メッセージは?

エドゥ・ロボ:ブラジル音楽を贔屓にしてください。素晴らしい音楽だから。

※『ラティーナ』1994年1月号(2016年3月号再掲)より転載

エドゥ・ロボ&トム・ジョビン「エドゥ&トム、トム&エドゥ」

エドゥ&トム、トム&エドゥ

2015/06/10 RELEASE
UICY-77223 ¥ 1,080(税込)

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Disc01
  1. 01.アイ・ケン・ミ・デーラ
  2. 02.プラ・ヂゼール・アデウス/さよならを言うために
  3. 03.ショヴェンド・ナ・ホゼイラ/バラに降る雨
  4. 04.モット・コンチーヌオ/連続運動
  5. 05.アンジェラ
  6. 06.ルイーザ
  7. 07.カンサォン・ド・アマニェセール/夜明けの歌
  8. 08.ヴェント・ブラーヴォ/暴風
  9. 09.エ・プレシーゾ・ヂゼール・アデウス/さよならを言わなきゃならない
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