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<インタビュー>バンドメンバーが語るThe RH Factorの偉大さ

Interview & Text: 柳樂光隆
ロイ・ハーグローヴを中心に結成されたRHファクターは、2003年にアルバム『Hard Groove』をリリースし、ジャズの世界を変えてしまった。
そこではジャズ・ミュージシャンたちがジャズやファンク、ヒップホップを演奏しているだけでなく、その輪の中にはディアンジェロやコモン、エリカ・バドゥもいて、そのすべてが融合していた。
その音楽に影響を受けたのがロバート・グラスパー。彼の『Black Radio』には『Hard Groove』が念頭にあった。そして、マイケル・リーグ率いるスナーキー・パピー。そもそもスナーキー・パピーは、ジェイソン・JT・トーマスとボビー・スパークスというRHファクターのオリジナル・メンバーと共に結成されたグループだった。そんな影響下にあるアーティストを挙げればきりがない。石若駿は「『Hard Groove』を聴かずに、21世紀のジャズは語れません」とまで語っている。
ロイ・ハーグローヴが2018年に亡くなってからしばらく経った今年、RHファクターはオリジナル・メンバーが集結して再結成。ノース・シー・ジャズ・フェスティバルに出演し、大きな反響を得た。そして、そのまま日本へ。東京と大阪のビルボードライブ、さらにサマーソニックでライブを行う。
今回、その来日に際してメンバーが取材に応じてくれた。リユニオンの経緯や、彼らが考えるRHファクターの重要性について語ってもらった。参加したのは、ジェイソン・JT・トーマス、キース・アンダーソン、ルネー・ネフヴィル、ブルース・ウィリアムス、ジェイソン・マーシャル、レジー・ワシントン、トッド・パースノウ、アイダ・ハーグローヴら。
――まず最初に、今回RHファクターが再結成することになった経緯を教えていただけますか?
Aida Hargrove:実は、私たちは少し前から再結成について話していた。でも、実現に向けて背中を押したのは、オランダのノース・シー・ジャズ・フェスティバルからRHファクターに出演依頼が来たこと。それに、フェスティバルの50周年でもあったから、みんなを集めるには素晴らしい機会だと思った。それで全員に電話をかけたら、みんな賛成してくれて、そこから話が進んでいった。
Reggie Washington:そうなんだ。でも実際には、この音楽のヴァイブはずっとそこに残っていて、もう一度向き合う必要があるんじゃないかということを、僕らはずっと話していたんだ。だから、それに向かうためのすごくいい第一歩だった。
Aida:そう、再結成の話はなんとなくあったと思う。特にこのグループの場合、最初のうちは、ロイ抜きでこの音楽を演奏することを考えることさえ、何人かにとっては少しつらかったと思う。だから、ある程度の時間が必要だった。でも、この1、2年くらいの間に、何人かがそのことを話し始めていた。そういう話がどんどん出るようになっていた。ノース・シーからのオファーが背中を押したんだと思う。
――長年にわたってRHファクターには非常に多くのミュージシャンが参加してきましたが、今回の再結成には誰が集まり、このラインナップはどのようにして決まったのでしょうか?
Reggie:ほとんど、最後に一緒にやっていた仲間たちだよ。ウィリー・ジョーンズⅲを除けば、2017年に日本で演奏したメンバーだ。なんていうか、みんなが昔のスーツを持っているようなものなんだ。
Renee Neufville:RHファクターには、入れ替わる席がたくさんある。ロイがこのコレクティヴを作ったとき、彼はメンバーを明確な意図を持って選んでいた。一度RHファクターのメンバーになったら、ずっとRHファクターのメンバーだから。
――それではジェイソン・JTトーマスに質問です。今回の再結成では、あなたが音楽監督のような役割を務めていると思います。再結成にあたって、どのようなアイデアを持っていたのか、どのようなショーにしたいと考えていたのかを教えてもらえますか?
Jason JT Thomas:僕らがいつもやってきたことと同じだよ。本当に何も違わない。驚くかもしれないけど、厳密に言えば僕らにはアルバムが2枚しかないんだ。僕らがやるのは、これまでずっとやってきたことだよ。いつだってグルーヴしていたし、いつだってソウルフルだった。ジャズになる瞬間もある。ヒップホップになる瞬間もある。ファンクになる瞬間もある。そのすべてだ。それが最初から僕らがやってきたことだからね。だから、エネルギーに満ちたものになるし、楽しいものになる。ただ今回は、もっと感情的なものになると思う。ロイが僕らと一緒にいないからね。それによって、すべてがより感情的なものになる。でも、楽しい部分や、あのエネルギーは、今も全部そこにある。それは、僕らにはやらない方法がわからないことなんだ。
Reggie:今「とても感情的だ」と言ったのは興味深いよね。なぜなら今になって、僕らがやってきたことの重要性や、僕らの努力とこの音楽への愛が実らせたもの、そしてそれが次の世代のミュージシャンたちにどのように届いたかが見えるようになったからなんだ。それを見るのは本当に素晴らしいよ。ステージに出て、この音楽を聴きに来た人たちを見て、「母親がこれをよくかけていたんだ」「高校から帰ってくると、台所でこれが流れていたんだ」と言われるたびに、涙が出そうになる。それに、彼らが両親をギグに連れてきて、「ほら、あのときのことを覚えている? 」と話している。それは信じられないようなことだよ。だから、この音楽をもう一度生き直すことができるのは素晴らしいし、同時に新しく作り直すこともできる。それに僕の肩にはロイがいる。あのギグでは彼が僕の肩に乗っていた。ロイがステージに持ち込んでたエネルギーだよ。

――ここにはRHファクターが始まったころのことを知っている方がいますよね。その話を聞かせてもらえますか?
JT:最古参はキースだよね。
Keith Anderson:そうだね、あれは80年代の古き良き日々だった。僕とロイは中学校で出会って、それから一緒にアーツ・マグネット(=ブッカー・T・ワシントン高校の別名)に通った。80年代後半には、このバンドをやろうと話していたんだ。そして最終的に、たしか2000年頃に、彼が「みんなを集めないといけない」と言った。それで僕が、ダラスで一緒に演奏していた連中に全員電話をして、集まってデモを作った。すごくうまくいって、それをレコード会社に持っていったら、そこから話が進んでいったんだ。
Reggie:次は僕だね。僕がバンド全体でいちばん年上のメンバーだから。ロイとは1989年に会った。僕の兄弟のケニー・ワシントンが紹介してくれたんだ。ロイが、あの「Young Lions」のことをやり始めた頃だった。ものすごいトランペット・プレイヤーだった。
Reggie:僕らはスティーヴ・コールマンと演奏していたんだけど、それ以外でも、僕らはNYで一緒に演奏していたんだ。そのころからロイはこの構想について話していたんだ。ロイはブランフォード・マルサリスの最初のファンク・バンド、バックショット・ルフォンクのアルバムに参加していたからね。彼は大きなファンク・バンドを作りたいとずっと話していた。マネージメントに話を持っていったら、予算がないと言われた。それで企画は棚上げになった。それから、今キースが言ったように、2000年にバンドが集まったんだと思う。そうしたらロイから電話がかかってきた。実際にはレコーディング初日に僕のほうから彼に電話したんだ。彼が僕に「やりたいか」って聞いたんだ。「もちろん」と答えたよ。そこから先はレガシーだ。音楽の歴史が作られたんだ。
JT:そうだね。僕がその周辺にいたのは、たぶん90年代後半からだ。ロイはよくダラスに来ていた。クインテットのツアーの合間に、いつも母親に会いにダラスへ来ていたんだ。僕は90年代初頭から、僕とキースとボビー・スパークスでバンドをやっていたんだ。ロイはダラスに来るたびに、当時僕らがやっていたような、もっとファンク寄りのことを自分もやりたいと言っていた。それにキースからは、ロイは何年も前から曲を書きためていて、ずっとそういう構想を持っていたと聞いていた。90年代後半、実際には2000年より前、僕らがデモを作るより前に、彼が街に来て、ダラスにあったぼろっぼろのリハーサル・スタジオでリハーサルをしたんだ。『Hard Groove』に入った曲のうち、たぶん4曲か5曲は、もうそのときに存在していた。それは90年代後半、98年か99年頃だった。それから2000年に、ボビーの家で最初のデモを作った。『Hard Groove』に入っている曲のうち、たぶん7曲か8曲は、ボビーの家で作ったそのデモから来ている。でも、それは2000年だった。だから僕はその頃からずっといるんだ。それから、RHファクターとして実際に最初のギグをやったのがヒューストンだった。そのときにウィリー・ジョーンズⅲと知り合ったんだと思う。ロイはちょうどディアンジェロとの仕事を終えたところで、ツインドラマーでやりたいと言った。もともとのキーボード奏者はボビー・スパークスだったんだけど、ボビーは最初のギグには参加していない。最初のギグでキーボードを弾いたのは、レイモンド・アングリーとロバート・グラスパーだった。だから、2000年代の初めからずっと奇妙なファミリー、拡大ファミリーみたいなことが起き続けているんだ。
Jason Masrshall:トッド、君も最初のデモに参加していたよね?
Todd Parsnow:そのとおり。デモ・セッションだね。ボビーの家でやった。ロイに会ったのも、あの曲を全部演奏したのも、あれが初めてだった。今も演奏している曲ばかりだよ。素晴らしい思い出だ。
――それでは『Hard Groove』の話を聞かせて下さい。『Hard Groove』は本当に新しい作品でしたし、だからこそRHファクターは多くのアーティストに影響を与えることになったと思います。今振り返ってみて、『Hard Groove』の最も革新的だった点は何だったと思いますか?

JT:これはレジーが答えるのがいいんじゃないかな。君はバックショット・ルフォンク(Buckshot LeFonque)にもいたし、あれが僕らにいちばん近い存在だったと思うから。
Reggie:そうだね。ロイもバックショット・ルフォンクの最初のアルバムに関わっていたし、クインテットでツアーに出るたびに、彼は僕らのステージにも加わっていた。ラッセル・ガンや若いターンテーブリストたちが何をやっているのかを、いつもじっと見ていたよ。バックショット・ルフォンクとRHファクターの違いはターンテーブルやパーカッションが入っているかどうかだったね。それ以外で言えば、ジャズ・ミュージシャンとR&Bミュージシャンを一緒にして、お互いのジャンルをちゃんと尊重しながら、それでも新しいものを生み出したことだと思う。その新しさは本当にフレッシュだった。そして僕らは、それを狙っていたわけじゃなく、本当に自然にやっていただけなんだ。少なくとも僕にとってはそうだった。
JT:レジーが言ったことに僕も同意するよ。僕がいちばん感じていたのは、最初のデモを作った頃から、ロイは何かになろうとしていたわけじゃなかったということだ。「ファンキーになろう」「ソウルフルになろう」「ヒップホップをやろう」としていたわけじゃない。それは全部、もともと彼の中にあったものなんだ。でも当時は、特にジャズの世界でも、R&Bの世界でも、みんなが自分のジャンルを分けたがっていた。「君はジャズの人だからジャズだけ」「ファンクをやる人だからファンクだけ」という感じだった。でも僕らはみんな、いろんな音楽を聴いて育ってきた。ロイは歩く音楽百科事典だった。ジャンルなんて関係なかった。だからRHファクターで出てきたものは全部、子どもの頃から彼の中にあったものなんだ。彼はテキサス州ウェイコとダラスで育った。僕の考えでは、彼があとからジャズを学んだ。でもリズム&ブルース、ソウル、ゴスペル、ファンクは、最初から彼の中にあった。だから彼がああいうバンドをやることは、外から見れば「ジャズ・ミュージシャンがファンクをやるなんて!」という感じだったかもしれないけど、僕らにとっては違うんだ。そもそもバンドメンバー全員がロイと同じだった。みんな何でも聞いていたし、何でも演奏していたからね。だから革新的だったのは、「”何か新しいことをやろうとしている”と周りが思っていたこと」なんだ(笑)。僕らは、ただ好きな音楽を作って楽しんでいただけだった。みんなジャズも好きだし、ファンクも好きだし、ヒップホップも好きだし、R&Bも好きだし、ソウルも好きだった。そして何より、その全部を一つのバンドで演奏できる機会を得られたことがうれしかった。普通は「そんなことはできない」と言われる。でも、まさにその「できない」と言われていたことをやったのが革新的だった。そしてRHファクターが現れてからは、みんなが「できるんだ」と思うようになった。今ではみんながやっているよね。
Jason:ロイとRHファクターが特別だった理由の一つは、タイミングだったと思う。僕はその次の世代(※ジェイソンはロイの14歳下)で、RHファクターを通して、ほかのたくさんの音楽を知った世代なんだ。自分があの時期にこのバンドへ引き込まれたことは幸運だった。僕らの多くが、マイルスやハービーのエレクトリック期を知ったのもロイを通してだった。ハービーは早い時期からそういうことをやっていたし、マイルスもそうだった。そのあとにブランフォード・マルサリスのバックショット・ルフォンク(1994)があり、ラッセル・ガンの『Ethnomusicology』(1999)があり、ニコラス・ペイトンの『Sonic Trance』(2003)があった。僕らはそれらをあとから知ったんだけど、その入口になったのはロイ・ハーグローヴとRHファクターだった。そして今では、どの音楽教育機関にもRHファクターをもとにした授業がある。
全員:すごいね。クレイジーだ。
Jason:バークリーなら、そういうアンサンブルが二つか三つある。でも今では、どの音楽学校にもRHファクターをモデルにしたような授業が何かしら存在する。ロイが、その姿を見て育った僕らの世代に示したのは、音楽的な卓越性は特定のジャンルに限定されるものではない、ということだった。音楽に優れているということは、音楽そのものに優れているということだ。ロイは、どのジャンルでも何一つ欠けていなかった。ただ音楽を提示すれば、みんながすぐに彼のやっていることに同調できた。だから僕にとって、RHファクターの最も力強かったところは、まさに適切な時期に現れて、すべての世代を一つにつないだことだと思う。あの作品が出たときに、初めて音楽を聴き始めた世代まで含めてね。僕もその一人だった。
Bruce Williams:僕にとってロイは、若い人たちのための橋だった。若いサックス奏者だった僕にとって、グローヴァー・ワシントンがジャズへ入るための橋だったように、ロイは別の人たちにとってジャズへ入る橋だったんだ。グローヴァーやジャズ・クルセイダーズのウィルトン・フェルダーのような人たちがいなかったら、ジャズは僕に同じようには響かなかったと思う。本当の意味で響くまでには時間がかかった。ロイもそれを提示した。彼は音楽のあらゆる面を見せることを恐れなかったし、それをまったく悪びれずにやった。多くの人が理解していないのはそこなんだ。さっき、ルネが言ったように、彼は何かになろうとしていたんじゃない。JTも言ったように、努力してそうなったんじゃなく、ただそういう人だった。彼は「自分がなるべき人間になっていいんだ」と思わせてくれた。それはジャンルだけの話じゃない。
Keith:そうだね。あのアルバムが、今起きているすべてのことに向けて扉を開いたと言っていいと思う。スナーキー・パピーも、さっき名前が出たロバート・グラスパーも、ヒップホップとジャズが出会ういろんな音楽もそうだ。本当にすごいことだった。あの1枚だけで、ロイがそれ以前に出していたアルバムすべての売り上げを合計した以上に売れたんだから。考えるとすごいよね。
Renee:興味深かったのは、ノース・シーで演奏したときのこと。私たちは正直、何が起きるのかわかっていなかったよね、みんな? ライン・チェックをしていたら、8,000人収容の会場に、少しずつ人が入ってきて、ステージのほうへ歩いてきた。私は「ロイがいないけど、みんな僕らを観に来てくれるんだろうか…」と不安に思っていた。でも、ライン・チェックが終わると、まずフロアが埋まっていくのが見えた。それから数分後には1階席が埋まり、さらに上の階も埋まっていった。そして私たちが『Hard Groove』を演奏し、トッドがあのフレーズを弾いた瞬間、会場のエネルギーが沸き立つのを感じた。私たちは、あの観客が必要としていたとおりの形でセットを始めた。それで私は、「ああ、私たちはホームに帰ってきたんだ」と思った。もう大丈夫、きっとロイもここにいる。みんなもここにいたいと思っている。私たちがやるべきなのは、彼らが必要としているとおりに届けることだけだ。ノース・シーでのあのショーは一生忘れないよ。
JT:『Hard Groove』は2003年。そしてノース・シーで僕が『Hard Groove』のビートを叩き始めた瞬間、まるで今年リリースしたばかりのアルバムのような反応だった。それほどのパワーが今もある。僕らは2007年以来、アルバムを出していない。それがパワーというものだ。そんなことを言える人は、そう多くない。たとえばローリン・ヒルは、1枚のアルバムだけで、今もその作品をもとに活動を続けている。あの1枚がそれだけ強力だったからだ。『Hard Groove』『Strength』『Distractions』。どれもほぼ20年以上前の作品なのに、今もあれほどの力を持っている。僕らは何も変えなかった。何かを付け足したわけでもない。派手なアレンジを大量に加えたわけでもない。ただ、ほとんど昔から演奏してきたとおりに演奏したんだ。それでも、あの会場を満員にした。20年以上前の作品だけを持ち、10年以上一緒に演奏していなかったバンドが、あの会場を満員にした。それだけで十分に物語っている。あれがRHファクターとロイのパワーなんだ。
公演情報
【The RH Factor reunion tribute to Roy Hargrove】
2026年8月13日(木)
東京・ビルボードライブ東京
1st stage open 16:30 start 17:30
2nd stage open 19:30 start 20:30
公演詳細>>
2026年8月16日(日)
大阪・ビルボードライブ大阪
1st stage open 15:00 start 16:00
2nd stage open 18:00 start 19:00
公演詳細>>
【SUMMER SONIC 2026
Billboard Live × James Fauntleroy's BEACH PARTY】
2026年8月14日(金)
東京・ZOZOマリンスタジアム BEACH STAGE
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