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<わたしたちと音楽 vol.80>伊藤沙羅 自分を信じて、LAで踊り続ける

インタビューバナー


 米ビルボードが、2007年から主催する【ビルボード・ウィメン・イン・ミュージック(WIM)】。音楽業界に多大に貢献し、その活動を通じて女性たちをエンパワーメントしたアーティストを毎年<ウーマン・オブ・ザ・イヤー>として表彰してきた。Billboard JAPANでは、2022年より、独自の観点から"音楽業界における女性"をフィーチャーした企画を発足し、その一環として女性たちにフォーカスしたインタビュー連載『わたしたちと音楽』を展開している。

 今回のゲストは、ロサンゼルスを拠点に活動するダンサーの伊藤沙羅。彼女は石川県で生まれ、若くしてダンサーとして生きることを決意すると、16歳のときに単身アメリカへ渡った。今やNE-YOら世界のトップアーティストの現場で踊る彼女は、何を信じて海を越えたのか。ロサンゼルスからのオンライン取材で話を聞いた。(Interview:Rio Hirai)

「高校には行かない」
中2の決意から、すべては始まった


――石川県のご出身で、中学生の頃にはもう「アメリカに行かなきゃ」と思っていたそうですね。日本を飛び出そうと決心した頃のことを教えてください。

伊藤沙羅:ダンス自体は7歳で始めていて、母がダンススクールに連れて行ってくれたのがきっかけで、ずっとのめり込んでいました。中学2年生のとき、道徳の授業で、先生がサッカーのキングカズ(三浦知良)が高校に行かずにサッカーの道に進んだという話をしてくださったんです。なぜか分からないんですけど、全然ダンスとは関係ないのに、その話を聞いた瞬間に「自分もこれをやりたい」ってとっさに思って。もうその日のうちに、家に帰って母に「高校には行かない」ときっぱり伝えました。それがアメリカへの第一歩でした。実際にコンビニのアルバイトで100万円を貯めて渡米して。でも最初の渡米は4か月で帰国したんです。


――それから「またチャレンジしたい」と伊藤さんを突き動かしたのは、どんな気持ちだったのでしょうか。

伊藤:当時16歳で、右も左も分からないまま石川県から急にアメリカに飛び出したので、カルチャーショックがすごくて。本当に別世界に来たのではないかというくらいの衝撃で、自分を試しきれなかった部分があったんです。英語も本当に「キャット」「ドッグ」「サンキュー」くらいしか話せなくて、言いたいことが言えない、コミュニケーションが取れない。家族もいない、友達もいない。あのときは夢どころじゃなくて、生活でいっぱいいっぱいでした。でも、「せっかく自分で決めて、高校にも行かずに100万円を貯めて来たのに」って悔しかった。その悔しさが、もう一度絶対チャレンジするという原動力になりました。


――再挑戦にあたって、目標にしていたことはありましたか?

伊藤:アメリカで仕事をするにはエージェンシーと契約する必要があって、エージェンシーがビザの手続きも支えてくれるんです。当時、エージェンシーと契約するためのオーディションが定期的にあったので、「次に行くときはそのオーディションに合格する」というのが最初の目標でした。日本でお金を貯めながら、ダンスの練習をして準備していましたね。


――アーティストビザの取得には、大変なご苦労があったそうですね。

伊藤:私は16歳で日本を飛び出してしまったので、日本でダンスを仕事としてした経歴がゼロだったんです。ビザを取るには日本での経歴も必要になるんですけど、私にはそれがなかった。どんな弁護士さんにあたっても、「あなたのケースではビザは取れない」と断られてしまいました。でも最後の最後に「一か八かやってみよう」と受け入れてくれた弁護士さんがいて。申請したのは、アメリカに来て5年が経ったとき。それまでずっと学生ビザで、その間にコロナという予想もしなかったことも起きてしまい、弁護士さんも「取れない確率のほうが高いかもしれない」と言っていたけど、自分を信じて、ギャンブルくらいの勢いで申請することを決めたんです。学生ビザだったのでお金はもらえなかったけど、その5年の間にテレビ番組やミュージックビデオに出演した経験がポツポツとあったので、それを武器に申請して、なんとか、本当になんとか通りました。小さい頃からダンスをやってきて、「これで生きていく」と自分の中で決めていたし、ダンスが生きがいだったので、絶対に諦めたくなかったですね。


ワンヒットに人生を賭けたかった
ダンスは私の救い


――過去のインタビューで、「ダンスに救われた」と話されていたのが印象的でした。ご自身の中でのダンスの存在は、渡米の前後で変わりましたか?

伊藤:ハリウッドには、ダンサーもアクターもシンガーも、世界中からいろんな人が夢を持って集まってきます。みんなそれぞれの価値観やジャンルを持っていて、自分らしさを大切にしている。だから“正解を探す”というより、自分の芯を信じて「これだ」と思える表現を追求するようになりました。日本にいた頃は「どれが正解だろう」「誰々のようにならなきゃ」という気持ちがあったんですけど、アメリカに行ってからは、自分をもっと信じられるようになったと思います。アメリカは特に、個性を持っている人が勝つ世界。どれだけ自分のスタイルを追求して、愛しているかが、結果に直結するんです。


――その“自分らしい表現”は、どうやって見つけていったのでしょう。

伊藤:私にとってダンスは、本当に人生を救ってくれたものなんです。正直、生い立ちはあまりいいものではなくて、ダンスがなかったら良くない道に行っていたんだろうなと思うくらい。でもダンスがあったことで自分の中に夢ができたから、「絶対これで成功する」というのをずっと芯に持ち続けられました。落ち込んでいるときやネガティブな気持ちのときも、ダンスが発散できる場所だったんです。溜め込むのではなく、ダンスで表現できていた。それが私の救いだったと思います。私はポッピンという、筋肉を弾くダンススタイルをやっているんですけど、そのスタイルを選んだのも、ワンヒットに自分の人生をかけたかったから。ポッピンの土台を大事にしながら、音楽やその瞬間の感情を素直に表現することを意識しています。


――ポッピンを軸としたご自身のダンススタイルは、アメリカで見つけたものですか? それとも日本から持っていったもの?

伊藤:日本でやっていたものを、アメリカに持っていった感じです。変な自信なんですけど、日本にいるときから「これは絶対世界で通用する」という信念、自分を信じる気持ちがずっとあったんですよ。だから途中でコロナの流行があっても、ビザを断られても、諦められなかった。なぜか絶対にできるって思っていました。


――転機になった出来事はありますか?

伊藤:コロナ禍では、業界全体がストップしてしまいました。ビザを持っているダンサーさんたちでさえ仕事ができない状況で、ビザのない私に仕事が来るはずもなくて、途方に暮れてしまって。そのときにパッと思いついたのがSNSでの発信でした。みんな家にいても携帯は絶対見るじゃないですか。「もうこれしかない」と思って、スタジオを借りたり家で撮ったりして、自分のフリースタイルを発信し始めたんです。それがバズって、コレオグラファー(振付師)やマネジメントの方も目をつけてくれるようになりました。本当に無名だった私が知られるようになったきっかけは、Instagramでの発信ですね。


“沙羅と仕事がしたい”
と思われる存在になりたい


――ダンスの世界では、アジア人が活躍するのは難しいという話も聞きます。実際に感じたことはありますか。

伊藤:海外の現場では、良い意味で結果と個性を見てもらえると感じています。年齢や肩書きよりも、自分にしかできない表現を持っているかどうかが大事にされている。ビザを取って初めての仕事が、シンガーのNE-YOとの仕事だったんですけど、ダンサーが4人いる中で、3人は黒人の女の子、私だけがアジア人という状況でした。私は身長が157cmと小さいし、彼女たちは手足が長くてスタイルも良くて。最初は体格や見た目の違いをすごく意識して、「私なんか」と思うことも正直ありました。でも、その中で自分にしかできないニュアンスや表現を強みに変えようと意識を変えたんです。“アジア人だから”“女性だから”ではなくて、「沙羅と仕事したい」と思ってもらえるようになろうって。


――最初のお仕事がNE-YOのバックダンサーというのは、大抜擢ですよね。

伊藤:ビザを取った1か月後に、コレオグラファーから直接電話がかかってきて、「NE-YOの仕事、行ける?」って。「え?」という感じでした(笑)。その方はもともとInstagramで私を見つけてくださって、以前別の仕事で一緒に働いたことのあるコレオグラファーだったんです。ほかのダンサーはヒールで綺麗に踊る女性らしいスタイルで、私はどちらかというと男勝りに踊るスタイル。その方が「あなたの個性が欲しい」とブッキングしてくれました。「ああ、私のスタイルも認めてもらえるんだ」って。1つの自信になりましたね。



――バックダンサーとしての役割と、1人のアーティストとしての役割は、同じですか? 違いますか?

伊藤:ダンサー一人ひとりが表現者でもあると思うので、私はダンサーもアーティストだと思っています。アーティストの後ろで踊っていても、そのアーティストと一緒に作品を作り上げている。同じ振り付けや同じ曲で踊っても、一人ひとり表現の形は違うし、その人にしかできない魅力がある。これからもっと、ダンサーが“ダンスアーティスト”という存在として高く評価されるようになったらいいなと思っています。


――この連載は、女性がエンタメ業界で活躍することにフィーチャーしています。女性であることが、活動や人生に影響していると感じることはありますか?

伊藤:昔は「女だから」ともっとジャッジされていたと思うし、今はそういう差別は減ってきていると思うんですけど、まだゼロではない。子どもを産むのも、主となって育児をするのも女性であることが多い。だから私は、男性より女性のほうが強いと思っているんです。「女性だから」という観念をもっとなくして、女性でもこれだけできる──高校に行かずにアメリカに来て、お金を貯めて、ここまでできるんだぞっていうのを、もっと見せていけたらなと思います。


――日本とアメリカで、ジェンダーギャップの違いを感じることはありますか?

伊藤:ジェンダーギャップよりも、私はアジア人への差別のほうを強く感じるかもしれません。特に感じたのはコロナの時期で、アジア人だからというだけで、バスで冷たい視線や罵声を浴びせられたり。何もしていないのに怖い思いをして、差別は全然消えていないんだなというのは身に染みて経験しました。それでも、ダンスを通していろんな国の友達とつながれる嬉しさのほうが強かった。エンタテインメントでつながった仲間がいるから、頑張れました。


――ダンス業界では、女性のコレオグラファーも活躍されているんですか?

伊藤:はい。私は個人的に、女性のコレオグラファーの方と働くのが好きなんです。女性だからこそ、女性の見せ方を分かってくれているというか。ご自身も若いときにダンサーとして活躍していた方たちなので、現役の女性ダンサーの気持ちを分かってくれる。NE-YOのコレオグラファーも女性で、私が一番憧れている方です。「自分もこういうふうに年を重ねていきたい」と思えるロールモデルが、近くにいるんですよね。


「沙羅なら絶対大丈夫」
母の言葉を信じて、踊り続ける


――ダンサーは体の変化が直接仕事に影響するお仕事だと思います。長く踊り続けるために、大切にしていることはありますか?

伊藤:去年の終わりに、人生で初めての怪我をしてしまって。腰を痛めて、夜中に救急病院に駆け込むくらい大変な状態になってしまったんです。それまではストレッチを怠っても「まだ20代前半だし」「全然いける」と余裕でいたんですけど、ダンサーは体が資本の仕事。自分の体の声をちゃんと聞くことをもっと大切にしなければいけない、と身に染みて思いました。特にツアー中は移動が続いて家にも帰れないし、私が風邪をひいてもショーがキャンセルになることはない。自分の体調管理は自分でする。健康管理は怠ってはいけないと実感しています。


――皆さんに聞いている質問です。キャリア1年目の自分に、今の自分がアドバイスをするなら?

伊藤:1年目というと、NE-YOにブッキングされた頃かなと思います。あの頃はやっぱり体型に悩んでいました。衣装は露出が多くて、レオタードで体のラインを出すスタイルだったんですけど、私がやってきたのはストリートのスタイルで、女性らしい見せ方に馴染みがなかったんです。周りと比べて、「この人は手足が長くて羨ましい」「同じ衣装を着ても私は全然違って見える」って。だから1年目の自分には、「人と比べるのではなくて、自分を信じて自分らしく踊り続けてほしい」と言いたいですね。


――そう思えるようになったきっかけは何だったんでしょう。

伊藤:当時コンプレックスだと思っていたところを、観てくれる観客の方が「小さくてキュート」って、プラスに評価してくれたんです。「こういうところも認められるんだ」という新しい発見が、自信に変わっていきました。


――伊藤さんは16歳で飛び出せた人ですが、「そうしたいけど勇気が出ない」という人も多いと思います。あと一歩が踏み出せない人には、どんな声をかけますか?

伊藤:日本にいた頃の私は、常に「何が正解だろう」「誰のようにならないといけない」と探し求めていたと思うんです。でもアメリカに来て、そうじゃないんだと感じました。自分が思う自分の表現を、楽しんでいいんだって。地元の小さい子たちが、私が日本に帰るたびに「沙羅ちゃんみたいになりたい」って言いに来てくれるんです。一歩を踏み出すのはすごく大変なことだと思うんですけど、その一歩が、誰かの背中を押すかもしれない。誰かに勇気を与えるかもしれない。それを忘れないでほしいです。


――伊藤さん自身が、エンパワーメントされる存在はいますか。

伊藤:母ですね。母自身がブラックミュージック好きで、私をダンススタジオに連れて行ってくれたのがダンスを始めるきっかけだったんですけど。シングルマザーで、私は三姉妹の長女なんですが、中学生の私が「高校に行かない」と言っても、「あ、そう。全然いいよ。応援する」って素直に言えてしまう。母の強さです、本当に。何があっても動じない人で、どんなことが起こっても「大丈夫、大丈夫、沙羅なら絶対大丈夫」といつも言ってくれていました。その経験が今につながっています。母の存在は、私にとって一番大きいです。


――最後に、これから先の夢を聞かせてください。

伊藤:これからも「Sara Itoだから」と必要としてもらえる表現者であることが、私の夢です。そして、誰かに夢を与えられる存在、誰かの背中を押せる存在に、もっとなれたらいいなと思っていて。それが日本だけではなく、世界で見てもらえたらもっと嬉しい。今まで支えてくれた家族や、出会った方々、環境への感謝を忘れずに、ダンスを通して恩返しできるようになりたいですね。


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