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<インタビュー>戦争、略奪、パンデミック——『続・村井邦彦のLA日記』に刻まれた、芸術家の眼で見つめた世界の激動

Interview & Text: 栗本斉
日本の音楽シーンにおける最重要人物のひとりである村井邦彦。「翼をください」に代表される多数の名曲を生み出した作曲家であり、アルファミュージックを主宰し、プロデューサーとして荒井由実からYMOまで多くのミュージシャンを見出してきた。音楽家としての才能は言うまでもないが、実は名文をものにする文筆家としての顔もある。
昨年出版された『続・村井邦彦のLA日記』は、コロナ禍におけるロサンゼルスでの生活を記録したドキュメンタリーであると同時に、音楽、映画、食にいたるまであらゆるエンタテインメントを描いた珠玉のエッセイとしても成立しており、さらにはファンタジーや冒険小説のエッセンスまで取り入れたユニークな内容だ。ここでは『続・村井邦彦のLA日記』が生まれた背景を中心に、文筆家としての村井邦彦の魅力を探るべく話を聞いた。
続編誕生のきっかけ
――2018年発刊の『村井邦彦のLA日記』に続き、『続・村井邦彦のLA日記』が出版されました。村井さんはなぜ日記を書こうと思われたのですか。
村井邦彦:「てりとりぃ」という同人誌があって、ミシェル・ルグランの研究で有名な濱田高志さんが主宰しているんです。彼とルグランつながりで仲良くなって、「何か書きませんか」って言われたのがきっかけですね。
――それが2011年ということなので、もう15年も前のことですね。
村井:そうですね。ずいぶん前です。最初は本になるなんてまったく思っていなくて、仲間内の読み物だったんです。ただ、その同人誌の中に出版社の人がいて、それがきっかけで本になりました。その後は2冊目の本になった小説『モンパルナス1934』を書き始めたこともあって少し途切れていたのですが、コロナ禍に入った時に、濱田さんから電話がかかってきて「ロサンゼルスの状況を、前の続きみたいな感じで日記に書いて欲しい」と言われまして、それが今回の続編につながっているんです。
――おっしゃる通り、「コロナ禍」は本書の大きなテーマですね。コロナ禍のロサンゼルスにおける村井さんの日々の生活が克明に記録されています。
村井:いやあ、人間ってすぐに忘れちゃうんだなって思うんだけれど、この本を読むとありありと思い出すんですよ。当時は本当に深刻でした。何が起きるか分からなかったし、何億人も死ぬんじゃないかと本気で思っていましたから。とにかく辛かったことは、人と会えなくなったことですよね。ロサンゼルスには友人がたくさんいますが、隣にいる弁護士の親友とも垣根越しでしか話せない。食事もできないし、「一杯やろうよ」なんていって飲みにも行けない。2年近くそういう生活でしたからすごく煮詰まりました。
――ワクチンの接種やオンライン飲み会など、コロナ禍ならではの話題がたくさん出てきて、まさに日記ならではという感じがします。ただ、読んでいて感じたのが、そんなに悲観的過ぎず、すごく淡々と文章をつづられているなということです。おそらく実際はもっと感情の起伏もあったのではないかと推測するのですが。
村井:そこはかなり意識しました。感情的にならず、事実をそのまま書くことが大事だと思ったんですね。例えば、デモに乗じた略奪なんていう衝撃的なニュースもあって、ルーターっていうんですが。そういうのって、日本ではあまり見ない光景ですが、テレビ局のABCがヘリコプターで映画みたいに中継して見せてくれるんですよ。それは本当にすごくショックで頭にこびりついてしまったのですが、そういうことも感情を込めずあくまでもテレビニュースで観たとおりに書いています。
――すごく客観的というか、世界を俯瞰してご覧になっているという印象を受けました。コロナ禍だけでなく、ロサンゼルスを襲った大規模な火事や、ロシアのウクライナ侵攻など、その間に様々な社会の変化がありましたが、そういった出来事が記録されているのも日記の特徴ですね。
村井:そうなんです。戦争など社会の変化について書くこと自体もこの日記の目的のひとつでした。僕はジャーナリストや政治学者ではないので分析的には書いていませんが、芸術家の立場でロシアとウクライナの戦争を見ていました。ロシアにもウクライナにも素晴らしい音楽家がいる。その国同士が戦争しているのを見るのは本当に辛い。芸術家は戦争が起こると苦労するんです。日本だと、藤田嗣治が戦時中にゼロ戦などの絵を描いて、戦後は戦争協力者だと言われ、逃げるようにしてフランスへ渡ります。音楽家もそうなんですよ。(ヘルベルト・フォン・)カラヤンや(ヴィルヘルム・)フルトヴェングラーも、戦争に翻弄されている。それに戦争が起こって、結局一番苦しむのは普通の人ですから、一刻も早く平和的に解決してほしいという思いを書いています。これは僕にとって重要なメッセージなんです。
――社会と村井さんとの向き合い方には、すごく共感することがたくさんありました。記録という意味では、実際に交流があった人物がたくさん登場します。逆にこちらは非常に楽しいエピソードが満載で、村井さんにしか書けない文章だなと感じました。
村井:いやあ、これまで本当にたくさんの人と出会ったんだなと思いますね。24歳で初めてパリに行って、そこからヨーロッパ、そしてアメリカの音楽業界における普通じゃ逢えないような人たちと友達になれたってことは幸運でした。実際に僕が体験したことなので、音楽や芸術に興味がある人なら楽しんでもらえると思います。
――どのエピソードも面白く読ませていただいたのですが、白眉と言えるのがミシェル・ルグランの想い出です。夢の中での再会という設定で、時空を飛び越えて語られていて、それだけでひとつの小説というか、一篇の詩のような印象を受ける文章で、とても感動的です。
村井:お言葉ありがとうございます(笑)。僕は本当に彼のことをよくわかっているんですよ。ものすごく天才肌で、いいところもあれば悪いところもたくさんある。でも憎めない人なんですよ。しかも書いてあることは全部事実。言われてみれば、確かに小説みたいですよね。
――音楽のことはもちろんですが、映画の話がたくさん出てくるのも楽しかったです。村井さんは相当なシネフィルではないですか。息子さんのヒロ・ムライさんも映像クリエイターですし。
村井:これは父の影響なんですよ。小学生の頃からいつも映画館につれていってもらっていてね。主に洋画ですけれど、たくさん観ていたんです。そのうち、中学生になると大親友が映画好きで、彼の影響でヌーヴェルヴァーグ映画とジャズにはまっちゃって、それで音楽の仕事をするようになったんです。ちなみに息子も中学生の頃からビデオの撮影にはまって、そのまま映画の仕事をするようになったから、道は違うけれど僕と同じですよ。
- 「妖精の登場で、ファンタジーや冒険小説のような様相に」
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妖精の登場で、ファンタジーや冒険小説のような様相に
――この本でひと際ユニークなのが、妖精の“鮫島三郎”が登場することです。このアイデアはどこから生まれたのですか。
村井:話し相手が欲しかったんですよ。コロナ禍で誰とも会えないからね。それで自由に動ける存在として妖精にしました。娘がダブリンに住んでいるんですけれど、アイルランドは妖精の文化があるんです。そんなことも影響しています。最初はアジフライを持ってくるだけの存在だったのですが(笑)、書いているうちに会話がすごく面白くなってしまって、どんどん広がっていきました。
――なぜ、名前が“鮫島三郎”なんですか。
村井:鮫島さんという学校の先輩がいて、いい苗字だなと思っていたんですよね。それで名前はやっぱり“三郎”だろう、と。まったく根拠はないんですけどね(笑)。妖精の名前にしては異色じゃないですか。この当時、小説『モンパルナス1934』を書いていたのですが、そこに登場するボディガードの名前を考えていた時に、共著者の吉田俊宏さんに「そっちが鮫島三郎なら、こっちは鮫島一郎でどうですか」と言われて「おー、それでいこう」ということになって(笑)、小説には鮫島一郎が登場します。
――鮫島三郎が登場することで、日記という体裁から一気に飛躍して、ファンタジーや冒険小説のような様相になっていきますね。それがこの本の面白さのひとつだと思います。
村井:もともと歴史が好きで、「もし自分が1930年代に生きていたら」とか、そんなことを夢想することがよくあったんです。例えば1950年代のジャズクラブの描写が出てきますよね。マット・デニスのライヴに行くシーン。あれも実は、マットのレコードを好きで聴いていたのですが、そのレコードにジャズ評論家の油井正一さんが書いたライナーノーツがあって、克明に記録されているんです。そのことを覚えていたのでレコードを引っ張り出して、実際にそこに書かれていた情景をもとに執筆しました。一部は空想ですが、事実に基づいた内容なんですよ。
――なるほど、村井さんは記憶力が相当いいんですね。それと、きちんと事実をもとにしているというのがとても興味深いです。
村井:戦前にアメリカ人の宣教師の10歳になる子供が軽井沢で夏を過ごす話が出てきますね。あれも一部は想像だけれど、事実に基づいているんです。もともと軽井沢は宣教師が作った町ですからね。そのことを背景にしてアメリカ人少年の恋を描きました。
――そういう事実をもとにした空想というのが面白いです。
村井:その少年が日米戦争の時、南太平洋で日本人捕虜を尋問する通訳を務めることになるのです。そして戦後はハリウッドで映画の脚本を書くようになるのです。その脚本家のモデルが2人いて、ひとりはドナルド・キーンなんです。彼はコロンビア大学で日本文学を研究していて、戦争で語学将校として動員され、日本語の資料を扱っていました。それで、日本人の繊細さに触れて、戦後日本にやってくるんです。キーンさんの本を読むとそんなエピソードがたくさん出てきて、それがこの日記に注入されています。それと、もうひとりのモデルは、僕のゴルフ仲間でUCLAの教授だった人です。この人も戦時中にドナルド・キーンと同じバークレーの海軍の語学学校で、「機関銃はいくつあるか」という日本語を教え込まれたと言っていました。そういう話をたくさん知っているから、自然と文章にも反映されるんだと思います。
――村井さんの文章の特徴は、こういったエピソードを映像的な文章として表現されていることだと思います。映画がお好きなのはわかりますが、文書を書くのも昔から得意だったのでしょうか。
村井:中学生の時に読書感想文を書いて、先生にすごく誉められたことがあったんですよ。人間っておだてられると好きになっちゃうんだよね(笑)。でも中学生から音楽にハマっていったから、物書きにはならなかったんだけど。
――それにしても、これだけ面白い、読み応えのある文章を書けるのはなぜでしょうか。
村井:それはよくわからないけれど、普通に就職してサラリーマンをやって、という人生に比べると、とてつもなく広い交際範囲があって、それも音楽だけでなく演劇や文学の人たちもいるし、僕は会社も経営していたから実業家や一部の政治家とも付き合いがありました。だから、そういった人たちからの耳学問は大きいかもしれない。僕が知らないことを知っている人と話すことが、昔から好きなんですよ。
――いろんな交友のなかで、自然と吸収したことをアウトプットして生まれた文章なんですね。
村井:うん、そうだと思います。じゃなきゃ書けないよね(笑)。
――今はまた執筆をなさっているんでしょうか。
村井:そう、また「てりとりぃ」の濱田さんから頼まれて文章を書き始めました。今度はシュルレアリスムの時代にオートマティズム、自動筆記という手法があって、それで文章を書いています。瞑想状態に入って、心に浮かんだことをどんどん書いていくっていうもので、かなり自由な発想で書いているからちょっと実験的かもしれない。
――それはまた面白そうですね。本として形になるのが楽しみです。でも村井さんは音楽活動も活発に行われていますよね。
村井:作詞家の山上路夫さんと一緒に曲を書き始めて、来年が60周年になるんですよ。そのレコーディングをずっとやっています。曲はもう揃っていて、ほとんどレコーディングも終わって、あとはマスタリングするくらいまで進んでいます。
――それは楽しみですね。いつ頃発表されるんでしょうか。
村井:できれば年内にはリリースしたいと思っています。その前に配信はいつでもできるので夏くらいには発表するかもしれない。楽しみに待っていてください。
――2022年に東京芸術劇場で行われた作曲活動55周年記念コンサートが素晴らしかったので、またコンサートも観たいですね。村井さんの音楽も文章もいろんな人が楽しみに待っていると思います。
村井:それは嬉しいなあ。来年の60周年にはコンサートは実現したいと思っていますし、文章も書けるだけ書いていきたいですね。
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