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<インタビュー>「結局みんな、まっとうなふりをしているだけ」――又吉直樹が音楽とともに描く、長編『生きとるわ』の人間論【WITH BOOKS】

Interview & Text: 黒田 隆憲
Photo: 堀内 彩香
又吉直樹が6年ぶりに上梓した長編小説『生きとるわ』は、友人間の借金、不倫動画の拡散、陰謀論といった題材を織り込みながら、善悪では割り切れない人間の弱さや危うさを浮かび上がらせる一作だ。主人公に据えられたのは、これまで又吉作品で繰り返し描かれてきた“表現者”ではなく、会計士として生きる38歳の男。人生の折り返し地点で揺らぐ心情、高校時代の記憶が現在にまで影を落とす構成、そして登場人物たちの本音や醜さをあぶり出す会話劇の妙――。人が「生きる」ことのままならなさをどう見つめたのか、じっくりと話を聞いた。
「もう自分のほうが年上なんや」
――新刊『生きとるわ』の主人公・岡田は、これまでの又吉さんの小説に登場してきた主人公とは少し違うタイプですよね。芸人や漫画家など、表現者や表現者を目指す人が主人公になることが多かった中で、今回は会計士という、いわゆる“普通の職業”に就く人物を主人公に据えたのはなぜだったのでしょうか。
又吉直樹:僕は上京して、芸人を目指し、食べていけるようになるまでにかなり時間がかかったんですよ。その頃のどうしようもなさというか、一応プロの芸人として舞台には立っていても、たとえば美容室で職業を聞かれて、嘘をつくのもなと思って「芸人です」と答えると、「芸人を“目指している”んですね」と言われてしまう。テレビに日常的に出ている芸人以外は、世間からすると“まだ目指している人”に見えるんやな、と。
そういう、自分の体験としてわかる「何者にもなれていない」人たちへの思いというか、共感が、僕の中にはすごく強いんです。なので、自分が見てきた風景を作品に落とし込もうとすると、まだ結果を残せていない人物に、いちばん強く惹かれていた。だからこそ、そういう人たちを書いてきたんですけど、芸人として世に出て、ようやく年相応の暮らしができるようになったときに、それまで顔を合わせなかった同級生や同世代の人たちと再会するようになったんですよ。
――なるほど。
又吉:同窓会に行って「まだやってんの?」みたいに思われるのが嫌だから、それまでは隠れるように生きていたんですけど、ある程度やれている状態で再会して話を聞いてみると、みんなもちろん収入もあるし、結婚して家庭もあって、僕とは全然環境が違うんです。でも、そこには彼らなりの苦しみがあるんやなとわかってきた。
もちろん、表現者の苦悩を軽んじることは絶対にないですし、僕自身ずっとそこを書いてきたわけですが、どこかで羨ましく思っていた人たちの暮らしの中にも、ちゃんと大変さがある。そのことに気づいたのが、いちばん大きかったと思いますね。

――これまでご自身が体験してこなかった職業を描くという点で、苦労はありましたか。
又吉:ありましたね。岡田を会計士にしたのは、「お金」が絡んでくる小説だからです。お金にいちばんしっかりしているはずの会計士が、お金を貸してしまう。あまりなさそうな設定ではあるんですけど、だからこそ会計士がいいかなと思ったんです。
ただ、僕にはわからないことだらけの職業ですから、会計士の友人に話を聞いたり、一年の流れの中で、いつ忙しくて、一月から十二月までどういう作業をしているのかを取材したりしましたね。実際、この本には書かれていない、単行本になる段階で削った会計士に関するくだりもたくさんあるんですけど、そういうことを調べるのは面白くもありました。
――岡田やその友人たちは、いわゆるミドルエイジクライシスにも直面する世代です。彼らと5歳ほどしか変わらない又吉さんにとっても、彼らが抱える迷いや葛藤には重なる部分がありますか。
又吉:そうですね。周りの芸人と話していても、10代20代の頃って目標を設定しやすいんです。世に出るとか、成長するとか、面白くなりたい、有名になりたいとか、やるべきことがすごくわかりやすい。でも、一度世に出たり、ある程度認識されるようになってからは、それを継続する難しさが出てくるし、やりたかったことをある程度やれてしまったあとに、「じゃあここからどうするのか」という虚無感を抱える人もいる。
僕は45歳ですが、正直、そんなに長生きするイメージを持っていなかったんです。自分の好きな作家でいえば、芥川龍之介は36歳くらい、太宰治は38歳くらい、三島由紀夫でも44歳くらいなんですよ。その人たちが僕にとっての“大人像”だったので、それ以降の人生ってすごく設計が難しいというか、「もう自分のほうが年上なんや」という感覚もあるんです。そこでフォームが崩れるというか、バランスを保てなくなってしまう。ちょうどそういう時期なんじゃないかと思います。
あと、妙な恥ずかしさもあって。これくらいの年齢になってきたときに、持たざる者の苦しさとか、認められない者の感情みたいなものを書いてきた人間が、状況が変わったあともまだそれを書こうとしていることへの後ろめたさというか……(笑)。それはずっとありますね。
――小説は、彼らの高校時代と現在とを行き来しながら進んでいきます。そうしたモチーフや物語の構成はどのように思いついたのでしょうか。
又吉:主人公の岡田と、友達であり問題児でもある横井、この二人の関係を紐解こうとすると、やっぱり高校時代を書かないわけにはいかないと思ったんです。最初は回想シーンがどれくらい長くなるか想定していなかったのですが、冒頭と結末だけ決めて、即興に近い形で書いていたら、結果的にかなり伸びてしまいました。
――高校時代の日本映画研究部で、彼らはゾンビ映画を作りますよね。彼らが抱えている鬱屈やフラストレーションをそこに投影していくわけですが、ゾンビ映画というモチーフや、映画の中にそうした感情を反映させるというアイデアは、どこから生まれたものですか。
又吉:ゾンビって「生きる屍」ですよね。生と死のあいだにある存在というか。この小説は『生きとるわ』というタイトルですし、大阪が舞台で、友人間の借金の話でもあるんですけど、いちばん大事なのは、生きていくことをどう捉えるか、自分の命や友達の命についてどう考えるか、ということなんです。
岡田が高校時代、淡い憧れを抱いていた友人の死を経験することが、この小説の核にあるんですよ。ゾンビ映画というモチーフも含めて、根底にはずっと生と死の問題がある。そこから逆算していって、ゾンビになったという感じですね(笑)。
- コントロールできない部分にある「面白さ」
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コントロールできない部分にある「面白さ」
――そもそもこの小説の原型として、コントの設定がもとにあったとうかがっています。借金を返す・返さないをめぐる会話劇は、小説の冒頭にも生かされていました。Aマッソの加納さんも別のインタビューで「芸人が書く小説の醍醐味は会話劇」とおっしゃっていましたが、コントや漫才を作ってきたことが小説に生きている感覚はありますか。
又吉:会話は漫才でもコントでもずっと書いてきたので、僕自身、書くのは好きですね。ただ、加納さんもあのインタビューでおっしゃっていましたけど、芸人は会話が書けるからこそ、書きすぎないように気をつける必要がある。その意識はすごく大事やと思います。結局は、そのへんを自分でどう設計しているかですよね。そこは気をつけています。
たとえば説明を書くことは、特に純文学では格好悪いことのように言われがちですけど、これもコントや漫才と同じで、説明って基本的にはたるいんです。説明せずに伝わるなら、そのほうがいい。登場人物が「面白いことを言おう」として面白いことを言っているのを、僕はあまり面白いと思わないんです。あくまで、その人物がそういう人物であるだけで、本人がコントロールできていない部分、自分ではこうしたいのに踏み外してしまって、思うようにいっていないところに、僕は面白さを感じるんです。性格が悪いかもしれないですけど(笑)。要するに、本人の意思と、その人の生きる時間や人生がマッチしていないところが、僕にとってはお笑いなんです。
――とにかく、横井という人物が本当に強烈でした。最初はどうしようもないクズだと思いながら読み始めたのに、だんだん笑えてくるし、どこか魅力的にも感じられて、ゾクゾクしながら読み進めました。ああいう人物は、どのようなところから生まれてきたのでしょうか。
又吉:ちゃんとしている人のことを、僕はもちろん尊敬しています。でも、ちゃんとしている人って基本的には間違わないじゃないですか。間違わないから、落ち着いてトラブルにも対応できる。でも、間違う人間の行動にこそ、人間の危うさとか本当の姿が露呈するんじゃないかと思っているんです。それは、子どもの頃から感じていたことなんですよね。
たとえば部活の先輩も、普段はみんなすごく優しい。ところが練習がきつくなって余裕がなくなると、急に怖くなる。あれがまさに人間の姿やなと思うんです。追い込まれたときにもがいたり、あたふたしたり、人に当たったりしているのを見ると、怖さと同時に人間らしさも感じる。ほんまはそっちのほうが本当なんじゃないかと思ったりもするんです。
そもそも僕は、うまくいっていない人間や、安定していない人物に対する興味が強いんでしょうね。もちろん、友達にするなら安定しているやつのほうがいいですけど(笑)、ずっと見ていたい、小説に描きたいと思わせてくれるのは、そういう人物なんです。

――主人公の岡田も、最初はちゃんとした人だと思いきや、追い込まれるにつれて本質が見えてくる。それによって二人の関係が反転していくところも目が離せませんでした。
又吉:あの二人はいろんなところで反転しているんです。冒頭の場面では、横井が言葉巧みに言い訳を吐き続ける。それを見て、岡田はあまり責めきれないというか、「ちょっと優しいやつなんかな?」みたいに思える。ところが高校時代の回想に入ると、むしろ岡田のほうがいろんな場面でかなり毒を吐いているんですよね(笑)。横井は、その岡田のサディスティックなスタイルを見て育っているところがある。だから岡田は、言葉で人を追い込んでいく横井を見ながら、どこかで「自分のせいでもある」と感じているはずなんです。結局みんな、「まっとうなふり」をしているだけなんじゃないかと思うんですよ。
――本人たちも決して“悪い人間”というより、“弱い人間”なのだろうなと。気がつくと、にっちもさっちもいかない状況にどんどん巻き込まれていく。そのあたりはコーエン兄弟の『ファーゴ』にも通じるように思いました。
又吉:さっきも言ったように、この小説は最初から完全な設計図があるわけではなくて、書きながら「なるほど、こうなるんや」と思いながら進めていたところがあるんですけど、岡田と妻の有希の会話の中で、有希が岡田の“弱さ”について、「それを弱さって言われたら、こっちは許すしかなくなる。でもそれって、むしろ図太さなんじゃないの。弱さじゃなくて」と言うんです。
――ああ……。
又吉:あそこは、自分で書きながら、自分が言われているみたいで、むちゃくちゃしんどかったです(笑)。自分自身、ダメであることを“振り”にして楽をしようとする人は、あまり好きじゃないんです。ダメなりにちゃんと苦しんでいる人、自分がダメであることの恩恵を受けていない人。そういう人に僕は惹かれるのかもしれないですね。
――岡田の不倫動画が拡散されてしまうエピソードや、陰謀論に徐々にはまっていく高校時代の友人の話は、いまのSNS社会や世相を反映しているようにも感じました。
又吉:正義が暴走しすぎて、その不寛容さがもはや暴力にさえ感じられるときはあります。正しいことは正しいから、すごく言いづらいところでもあるんですけど、このままだとみんなめちゃくちゃしんどくなっていくんじゃないかなとは思いますね。
個人的には、もう少し緩くてもいいんじゃないかなと。あまりにも無菌状態というか、完全に清潔で、汚れのないものだけを求めていくと、そこからまた別の苦しみが間違いなく出てくる気がします。矛盾していることとか、不合理なこととか、「なんでこんな無茶苦茶な条件をこっちが飲まなあかんねん」みたいなことに、ある程度普段から触れていないと、ちょっとしたことでバランスを崩してしまいそう。もちろん、いたずらに人を傷つける必要はないですし、僕も極力そういうことがないように気をつけています。でも、過剰な部分はあるかなと思いますね。
――岡田や横井のような人たちを魅力的に描いていること自体、無菌状態になっているいまの世の中に対するアンチテーゼ……とまでは言わないにしても、それだけでは捉えきれない人間の奥行きや、ままならなさを描こうとしているようにも感じました。
又吉:そうですね。もちろん、いまの世の中を完全に否定するつもりはないのですが、「生きていたらあかん」みたいなところまで追い込んでいくのは、やりすぎやなとは思っています。難しいところですね。
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「小説を書く前に、セットリストを作る」

――又吉さんの作品は、音楽の使い方がとても印象的です。
又吉:作品の世界を作るうえで、音楽はすごく重要だと思っています。特にバーみたいな場所を描くなら、どんな音楽が鳴っているかは大事ですよね。BGM程度にクラシックを流している店と、しっかりしたスピーカーを置いて意図的に音楽を選んでいる店とでは、マスターの人物像も変わってくる。今回でいうと、大倉の経営するバーには、高田渡や加川良のような、関西にゆかりのあるアーティストの曲が流れているといいなと思っていました。
『劇場』という小説を書いたときは、同棲している恋人同士の部屋で、男がわがままで彼女を泣かせてしまう場面があるんです。彼女は支えようとするけれど、苦しすぎて泣いてしまう。そのとき、隣の部屋の人間が喧嘩の声を聞きたくなくて音楽を流すんですよ。それが、タイトルは明示していないけど、ヴァン・モリソンの「Crazy Love」なんです。
あの曲って、「俺はこんなにお前のことが好きなんだ」という歌なんですよね。男はひどいことを言って、悪くない女の子が泣きながら謝っていて、男は謝ることもできない。そういう関係性なんですけど、その主人公の心は「Crazy Love」に委ねられているというか、「ほんまはめっちゃ好きなんや」という気持ちが、そこに重なっているんです。
――音楽が、その場面を立体的に描く役割を担っているわけですね。
伊藤:『火花』を書いたときは、最後にボブ・マーリーの「No Woman, No Cry」が流れています。語り手の徳永という芸人と、先輩の神谷という芸人がいろいろあって、最後に温泉へ行くんですけど、宿で借りたCDの中にボブ・マーリーが入っていて、それを後輩は文章を書きながら、先輩は露天風呂に入りながら聴いている。そのときに流れるのが、「No Woman, No Cry」のライブバージョンなんです。
あの曲って、ジャマイカで生活に苦しむ人たちの視点があって、サビで「Everything will be all right」と歌う。要するに、「貧しい青春時代を送ったけれど、大丈夫や」という歌でもあって、僕が『火花』で書いていることとほぼ同じなんですよね。だから、そこで接続させている。しかも、なぜライブバージョンかというと、「大丈夫や」と言われている対象がオーディエンスだからなんです。『火花』で描かれている人物たちも、結局はそのオーディエンスで、熱狂して声を上げている側こそが、実はあの曲の主人公でもある。そういう音楽の使い方はしていますね。
小説を書く前に、なんとなくセットリストみたいなものを作ることもあります。「こういう感じの曲かな」と考えて、実際に聴きながら微調整して、「これはちょっと違うな」「こっちを入れようか」と毎回やっています。
――ところでビルボードでは、漫画も文芸書もビジネス書も含めた総合書籍チャートを毎週木曜日に公開しています。書店での売上に加えて、EC、電子書籍、図書館、さらにSNSで話題になっている本も加味したランキングなのですが、ご感想をいただけますか。
伊藤:小説が漫画に対抗するのはなかなか難しいと思うんですけど、そんな中で朝井リョウさんとか、村田沙耶香さんの『コンビニ人間』みたいな作品が、いまだにこういうところに入っているのはすごいですよね。
チャートって、「今これが売れています」という事実を示す役割がある一方で、それを可視化することで、その状況自体をさらに強固にする力もあると思うんです。「上位に入っているから読んでみよう」という意識も生まれやすいし、本来なら出会わなかったかもしれない読者層を、こういうチャートが広げている側面はあるのかなと思いますね。初めて本を読もうと思ったときって、誰かのおすすめにするか、本屋で平積みされているものにするか、あるいはいちばん売れているものにするか、くらいしか選びようがないですもんね。「チャートを見て読もう」と思える仕組みがあること自体、すごくいいことやと思います。
そのうえで、チャートとは別軸で、それを補完するような“説得力のある紹介者”も必要じゃないかと思う。たとえば音楽だったら、ちゃんと実力を認められているプロデューサーやミュージシャンが「こいつらすごい」「この曲がいい」と言えば、すごく説得力があるじゃないですか。でも本だと、あまりそういう存在が機能していない気がするんです。文芸評論家など、もちろんそういう役割を果たそうとしている人はいるんですけど、影響力という意味ではまだ弱い。
――なるほど。
伊藤:むしろ今は、20代前半でSNSを使って本を紹介している人たちのほうが、多くの人に本を広められていたりする。だからこそ、こういうチャートがあることで「何が売れているか」という軸は担保されているわけで、それとは別の軸を、僕らは僕らでちゃんと作って発信していかなあかんな、とも思いますね。

























