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<インタビュー>夢を生きるんだ――レスリー・マンドキが叶えた夢と託す未来



<インタビュー>夢を生きるんだ――レスリー・マンドキが叶えた夢と託す未来

 これほど鮮やかに夢を叶えた人はそうそういないのではないだろうか。アーティストあるいは表現者というポジションを得た人々は大なり小なり夢を叶えているのだろうが、このハンガリー出身でドイツを拠点に活動するドラマー/ヴォーカリスト/作曲家/プロデューサーのレスリー・マンドキは、若き日に逆境の中で具体的に描いた夢をそっくりそのまま実現したのだ。

 1953年ブダペストに生まれたマンドキは、共産主義時代のハンガリーで旧ソ連の脅威を感じながら青春期を過ごした。英国プログレッシヴ・ロックや米国ジャズ・ロックに夢中になりながらも、そうした音楽は当時のハンガリーではタブー視されており、自身でバンドを結成するも活動はままならず。そこでマンドキは22歳の時に亡命を決意。その際「ジャック・ブルース(クリーム)、イアン・アンダーソン(ジェスロ・タル)、アル・ディ・メオラ(リターン・トゥ・フォーエヴァーなど)らとバンドを作る」と明言している。

 亡命先のミュンヘンで、まずはジンギスカンというグループに参画し、日本を含めた世界的大ヒットを飛ばす。その後、作曲家やプロデューサーとして活躍し、フィル・コリンズやライオネル・リッチーなどビッグ・ネームたちと仕事をする機会も得た。並行して自身のグループ、マンドキ・ソウルメイツを始動し、そこには亡命時に“夢のバンド”として名前を挙げたジャック・ブルース、イアン・アンダーソン、アル・ディ・メオラをはじめ錚々たるメンバーが集ったのだ。
 そんな、まさにドラマのような展開を見れば、たとえその規模は違えど夢を持つ我々も、大いに刺激を受け、大きな希望を膨らませるのだ。

 今年8月に故郷ブダペストで豪華メンバーを従えて凱旋ライヴを行ったマンドキに、これまでの波乱万丈の足跡、そして次世代へと繋ごうとしている“未来”について伺った。

Text & Interview : 石川真男

“独裁政治”を文字で学び取るのは難しい――だから音楽で表現する

--そちらはミュンヘンのご自宅ですか?

レスリー・マンドキ(以下マンドキ):ここは僕のスタジオのオフィス。シュタルンベルク湖のほとりで、ミュンヘンからも近い。車で30分ぐらいかな。夏でも山頂には雪が残っている。窓から湖を見渡すことができるんだ。見せてあげよう(バルコニーに出て、カメラを湖に向ける)。

--うぁ、すごい絶景ですね!

マンドキ:遠くにアルプスが見える。

--おぉおお…なんと美しい…。そこにあなたのスタジオがあるわけですね。贅沢な空間ですね。

マンドキ:そう。広いスタジオがあって、ソリッド・ステート・ロジックのミキシング・コンソールが設置されていて、ハモンド・オルガンやフェンダー・ローズ・ピアノやヴィンテージ・ギターなどなんでもある。おそらくヨーロッパで最も大きいスタジオだと思うよ。でも、最も重要なのは近くに日本料理屋があることだ。ランチに美味しい寿司を楽しむんだ。

--おぉ、いいですね。いつかお邪魔したいです。

マンドキ:いつでも歓迎するよ。

--今はそこを拠点に活動されているわけですね。

マンドキ:そうだ。

--で、お生まれは、当時共産主義国であったハンガリーの首都ブダペストです。どんな環境だったのでしょうか?

マンドキ:幸運な環境で育った日本の方々には、旧ソ連の息のかかった共産主義国に生まれることがどういうことか、なかなか実感できないだろう。

--確かに、知識としてはある程度学びましたが、実感としては一体どういうものなのか分かっていないと思います。

マンドキ:君は身長何cmだ?

--え?174cmですが…。

マンドキ:ならば、天井まで160cmの部屋に住まなきゃならないと想像してみるんだ。それが独裁政治というものだよ。本来ならば、しっかり立って、堂々と歩き回ることが許されるべきなんだ。こうした感覚を文字から学び取ることは難しいと思う。だからこそ、そうしたことを芸術や音楽で表現するのが重要なんだ。僕は若い頃から自由を希求してきた。音楽で成し遂げたいことがあった。だから、16歳の時に音楽学校で学ぶことにしたんだ。演奏や作曲の技術をね。でもそれは、より良い世界を、自由な世界を求めていたからこそだったんだ。

--ブダペストの音楽学校ではドラム/パーカッションを専攻したとのこと。クラシックの打楽器を学んだということでしょうか?

マンドキ:作曲に関してはクラシックを学んだよ。でも、ドラム/パーカッションに関しては、クラシックはちょっと物足りなくてね。そこにはジャズ部門があったから、そっちに移った。まだ若かったから、とにかく速く激しくプレイする技術を学びたかったんだ。

--入学の時点ではクラシックの演奏家あるいは作曲家を目指していたんですか?

マンドキ:そもそもは詩人か画家になりたかったんだ。でも、ヴァイオリニストだった父は、僕に音楽の才能があると思っていて、音楽の道を真剣に進んでくれることを望んだんだ。だからクラシックを学ぶことにした。だけど、クラシックの演奏家になることを夢見ていたわけじゃなかった。ロック・ミュージシャンになりたかったんだ。

--あなたはその頃からプログレッシヴ・ロックやジャズがお好きだったとのこと。そうした音楽には簡単にアクセスできたのでしょうか?

マンドキ:70年代のブダペストは日本のようなパラダイスじゃなかったよ。不正なコピー品のアルバムは入ってきていたけど、第7世代のモノラルテープだった。そもそもステレオの再生機などなくて、スピーカーは一つだったけど。

--あぁ…。コピーのコピーのコピーのコピーの……カセットが入ってきていたわけですね。

マンドキ:カセットテープじゃなくて、オープンリールだ。

--あ、そうなんですね…。

マンドキ:それでクリームやジェネシス、イエス、ピンク・フロイド、ジェスロ・タルなどを聴いていた。そこからアメリカのジャズ/フュージョンやジャズ・ロックに夢中になった。マイルス・デイヴィスやマハヴィシュヌ・オーケストラ、ウェザー・リポート、リターン・トゥ・フォーエヴァー、ブレッカー・ブラザーズとかね。で、音楽学校で学ぶかたわら、JAMというバンドを結成して、英国のプログレや米国のジャズ・ロックから影響を受けた音楽をやったんだ。

--そうした音楽を演奏することは自由にできたんですか?

マンドキ:そうだな…。厳格に規制されていたわけではないけど、ああいった音楽はタブー視されていたから、TVやラジオで流れることはなく、僕らも公的な施設などは使用できなくて、アンダーグラウンドな活動しかできなかったよ。レコードをリリースすることもできなかった。だから22歳の時に亡命したんだ。自由を求めてね。

--大変な決断だったと思います。

マンドキ:そのとおりだ。命懸けだった。命を懸けて国境を越え、全てを捨て、全てを忘れ、新たな国で、新たなシステムの中で人生をリスタートしようと思ったんだ。成功や名声や富が欲しかったわけじゃない。ただただ自由が欲しかったんだ。

--それでいわゆる“鉄のカーテン”を突破したわけですね。そこからミュンヘンへと向かったのでしょうか?

マンドキ:まずはバイエルンの難民キャンプに辿り着いたんだ。そこで亡命審査官から「職業は?」と訊かれたから、僕は「ミュージシャンだ」と答えた。すると彼は「どうやら言葉が分からないようだね。日中の仕事は何かと訊いているんだ。どうやって生計を立てているんだ?」と。僕はやはり「ミュージシャンだ」と答えた。すると「楽譜は読めるのか?」と訊いてきたから、「もちろん」と答えた。すると次の日、シュヴァーベン(編注:ドイツ南西部の地域)の劇場で演奏する仕事がもらえたんだ。ドラマーが病気で出演できなくなったからだった。僕は劇場で演奏して、そのギャラを頭金にしてドラムキットを買った。しばらくそこに出演した後、ドラムキットを車に載せてミュンヘンへと向かった。唯一連絡先を知っていたパスポート(編注:1971年より活動するミュンヘンのフュージョン・バンド)のサックス奏者クラウス・ドルディンガーを訪ねてね。そして電話をかけた。「一年前にユーゴスラヴィアのクラブで対バンしたJAMというバンドのドラマーだ。覚えてる?」「あぁ、覚えている。」彼はミュンヘンでいろいろと助けてくれたよ。

--この時亡命した一行の中に、後に『ラグラッツ』などで大成功を収めるハンガリー出身のアニメーター、ガボール・チュポーもいたとのことですが…。

マンドキ:あぁ、ずっと一緒に行動したよ。あの時以来大親友になったんだ。当時から彼は「ロスに行って自分のスタジオを設立する」と言っていて、僕は「イアン・アンダーソンとジャック・ブルースとアル・ディ・メオラとブレッカー兄弟と一緒にバンドを作る」と言っていたよ。

--お二人ともとてつもなく大きな夢を叶えたんですね。

マンドキ:キャンプではみんなから「この二人のハンガリー人はクレイジーだ」と言われてたな。でも、二人とも夢を現実のものとしたんだ。

--あなたは自由を求めて亡命者となりました。ミュンヘンに辿り着いて、自由は見つかりましたか?

マンドキ:あぁ、もちろんさ。だからここが僕のホームタウンになったわけだ。

--当時のブダペストとミュンヘン。どんな違いを感じましたか?

マンドキ:全てが違っていたよ。ミュンヘンの街はよりカラフルで、より人間的だった。街の息遣いも違った。こちらの生活はどんな場面でもよりエキサイティングだったね。

--それからおよそ14年後の1989年、ハンガリーは民主化を果たしました。あなたはどこで、どんなお気持ちでその報を聞いたのでしょうか?

マンドキ:その時はミュンヘンにいた。ちょうど父親になった頃だったから、生活は家族を中心に回っていたよ。その知らせを聞いてとても素晴らしいことだと思った。思わず涙が溢れてきたのを覚えている。

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ジンギスカンへの参加/世界的な大ヒットはアクシデント!?

--ミュンヘンでしばらくスタジオ・ミュージシャンとして活動したのち、1979年にはジンギスカンというグループの創設メンバーとなります。これはどういう経緯で?

マンドキ:実際、あれはアクシデントのようなものだったよ。ちょうどロック・アルバムを作る契約を交わしたところだった。レーベルのボスが突然部屋に入ってきてこう言ったんだ「僕のために1曲歌ってくれないか? ユーロビジョン・ソング・コンテストというものがあって、それに参加するためにシンガーを探しているんだ。」 そこで僕はこう言った「今はそういう気にはなれないよ。」 するとボスは言った「分かった。じゃあ、やってくれたら僕のスタジオを三週間タダで貸そう。」 もちろん僕は言った「素晴らしい。歌わせてもらうよ。」


▲Dschinghis Khan - Dschinghis Khan (ZDF Starparade 14.06.1979)

--ロック・アルバムを作ろうとしていたあなたが、ディスコ/ポップのグループで歌い、世界的な大ヒットを飛ばします。グループでの活動は楽しかったですか?

マンドキ:なんだか不思議な感じだった。大観衆を前にパフォーマンスして、黄色い声援を浴びて…。でも、僕は“ポップスター”タイプじゃなくて、“ロック”の人だから。ものすごい成功を収めたけど、今の人生の方がよほど快適だよ。自由に音楽を作ることができるからね。

--あなたは1995年にジンギスカンの一員として来日し、人気テレビ番組『なるほど!ザ・ワールド』に出演しました。その時のことは覚えていますか?

マンドキ:もちろん。日本のレーベル、JVC(編注:当時の日本でのレーベル、ビクター音楽産業のこと)に招かれてね。

--それが初来日だったのでしょうか?

マンドキ:いや、その前に何度か訪れている。1988年のソウル・オリンピックをテーマにした「KOREA」という曲(編注:ニュートン・ファミリーのエヴァ・サンとのデュエット“レスリー・アンド・エヴァ”名義)をリリースして、それが日本のグループにもカヴァーされていたからね(編注:1988年に少女隊がカヴァー)。

--日本はいかがでしたか?

マンドキ:旅行でも訪れたことがあって、子供たちを京都に連れていったんだ。美しい街並み、歴史的建造物、そして本物の日本料理。素晴らしかったよ。外国人旅行者が行かない日本料理屋に行くんだ。地元の人が行くようなお店にね。

--生の魚は大丈夫ですか?

マンドキ:大好きさ。日本の新鮮な野菜も素晴らしいよ。

--日本の文化や国民性などにはどんな印象を?

マンドキ:日本の文化には深い精神性や人間性が感じられるんだ。そして、日本人の気質は地中海沿岸の人々のそれとは対極にあると思う。例えば、日本人がハグをしたとしよう。

--日本人はあまりハグの習慣はないですよね。

マンドキ:そういうことだ。日本人は普段はハグをしないけど、地中海人たちは常にやっている。友人に、家族に、見知らぬ人にさえ。でも、日本人がハグをした時、それは本当の意味での、心からのハグなんだ。とても誠実なものを感じるよ。

--なるほど。

マンドキ:文化にも深い誠実さが宿っている。ある種の信頼感があって、リアルなんだ。文化というものは、フォーマットとコンテンツのバランスの上に成り立っていると思うんだけど、日本の文化は、欧米に比べるとよりコンテンツを感じるんだ。とても誠実な文化だよ。一つの言葉で深い精神性を表したりするよね。それこそ、刺身はとても“誠実”な料理だよ。2時間もかけて煮たり焼いたりすることなく、新鮮なものをそのまま出す。それにはクオリティがとても重要なんだ。それはまるで詩や音楽のようにその国のメンタリティを表現している。刺身ほど“誠実”な料理はないよ。

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MANDOKI SOULMATES結成:ジャック・ブルースもチャカ・カーンもみんなミュンヘンまで来てくれた

<インタビュー>夢を生きるんだ――レスリー・マンドキが叶えた夢と託す未来

--あなたは1992年にマンドキ・ソウルメイツを結成、翌1993年にアルバム『People』をリリースしています。この作品には、 ボビー・キンボール(vo)、クリス・トンプソン(vo)、エリック・バードン(vo)、デヴィッド・クレイトン・トーマス(vo)、イアン・アンダーソン(vo, fl)、ジャック・ブルース(vo, b)、チャカ・カーン(vo)、アル・ディ・メオラ(g)、マイク・スターン(g)、スティーヴ・カーン(g)、ランディ・ブレッカー(tp)、マイケル・ブレッカー(ts)、ビル・エヴァンス(ts, ss)、ヴィクター・ベイリー(b)、アンソニー・ジャクソン(b)、ピノ・パラディーノ(b)など錚々たる面々が参加しています。まさに夢が叶いました。

マンドキ:そのとおりだ。間違いない。

--これだけのメンバーを集めるのは大変だったのでは?

マンドキ:そうだなぁ、それほど難しいとは感じなかったかな。みんな僕のスタジオに招いて、まるで何年も前から一緒に演奏してきたかのように音を鳴らしたんだ。素晴らしかったよ。

--え?ロスやニューヨークのスタジオではなくて、ミュンヘンまで呼んだんですか?

マンドキ:そうだ。このスタジオだ。ジャック・ブルースもチャカ・カーンもイアン・アンダーソンもブレッカー兄弟も、みんなミュンヘンまで来てくれた。

--おぉ、でも、スケジュール調整だけでも大変だったのでは…。

マンドキ:とっておきの話をしてやろう。ロス、ニューヨーク、ロンドンなどからプレイヤーたちを呼んで、それぞれ少しずつ時間をずらしてレコーディングを行った。で、湖のほとりまで下りていって、遅いランチを摂ったんだ。男7人で、ボビー・キンボールやクリス・トンプソン、アル・ディ・メオラらがいたかな。その時、誰かが言ったんだ。「あぁ、男ばかりじゃないか」って。僕は「じゃぁ、誰か女性を呼ぼう」と提案した。で、半ば冗談で、それぞれコースターの裏に呼びたい人の名前を書いたんだ。そして、せーので裏返してみんなで見せ合ったら……なんと7人全員が「チャカ・カーン」って書いていたんだ!もうこれは呼ぶしかないと思って、すぐさまスタジオに戻ってチャカ・カーンに電話して、事の顛末を話したら、「分かった。じゃあ明日そちらに行く」って。実際、チャカは翌日にこちらに来てくれたよ。


▲Chaka Khan - Aint Nobody (Live in Budapest Man Doki Soulmates Concert 2013) HD

--チャカ・カーンとは旧知の仲だったんですか?

マンドキ:あぁ。ディズニー映画のサントラなどで仕事をしていたからね。

--これまでの作品に関して一つお聞きしたかったことがあるのですが、マンドキ・ソウルメイツは2019年に『ハンガリアン・ピクチャーズ』というアルバムをリリースしています。アルバム全体が組曲のようになっていて、民族音楽的なメロディやリズムが散りばめられています。それらはハンガリーの伝統音楽なのでしょうか?

マンドキ:そうだね。実際あれはハンガリーの作曲家バルトークの作品を元にしたものだ。おそらく彼は“初のロック作曲家”といえるだろう。彼の音楽には大いに影響を受けてきたよ。


▲"Land of Utopia" - Hungarian Pictures (Part 02)

--バルトークには民族音楽の根源的な力強さがありますよね。それに、日本の伝統音楽との類似性も見られるように思います。五音音階のメロディとか…。

マンドキ:まさにそうだ。

--今年(2025年)8月21日には、ブダ城の三位一体広場で大規模なコンサートが行われました。あれからおよそ4ヶ月が経ちましたが、改めて振り返ってみると今どんなお気持ちですか?

マンドキ:あの後も、コンサートを音源化する作業や、映像の編集などをずっとやってきたから、当日の様子を振り返る機会が多かったんだ。ああいった形で故郷に帰ることができたのは嬉しかったよ。オープンエアの大会場で、大観衆の前で演奏できたこともね。特別なものになった。いくつかのパートで英語の歌詞をハンガリー語に訳して歌ったんだ。


▲Mandoki Soulmates - 50 Years Longing For Freedom - The livestream of the anniversary concert

--このコンサートでは、マイク・スターン(g)、トニー・カレイ(key)、リチャード・ボナ(b)、ジョン・ヘリウェル(as, ts)、ランディ・ブレッカー(tp)、ビル・エヴァンス(ts, ss)といったスタジオ・アルバム同様に錚々たるメンバーが集結しています。

マンドキ:このコンサートを成功させるために選んだプレイヤーたちだ。ミュージシャンにとって最も大切なことの一つは、“テイスト”をしっかりとコントロールして、頭の中のヴィジョンを的確に具現化することだ。それを実現するための最高のメンバーを集めることができたよ。

--そんな中、あなたの愛娘ジュリアもコーラスで参加し、ソロでその美しい歌声を披露する場面もありました。

マンドキ:彼女は素晴らしい歌声の持ち主だ。それに優れた作曲家でもありアレンジャーでもある。例えば、新作『A Memory of Our Future』の「Matchbox Racing」という曲では、僕の書いたメロディを彼女が大幅に手直ししてくれた。素晴らしいものに仕上がったんだ。とても有意義なコラボレーションだったよ。

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英プログレと米ジャズロックの中間に位置する音楽=“新たなモダン・プログレ”

--それでは最新アルバム『A Memory of Our Future』についてお伺いします。2024年5月10日にリリースされたこのアルバムには、イアン・アンダーソン(fl)、アル・ディ・メオラ(g)、マイク・スターン(g)、リチャード・ボナ(b)、サイモン・フィリップス(dr)、トニー・カレイ(key)、ジョン・ヘリウェル(ss, as, ts)、ビル・エヴァンス(ts, ss)、ランディ・ブレッカー(tp, f-hrn)など、ここに書き切れないほど豪華なメンバーが参加しています。そうした面々と繰り広げる音楽は、あなたが10代の頃より影響を受けたプログレッシヴ・ロックやジャズ・ロックの要素が色濃く出たものですが、ただそれらの様式を模したものではなく、ポップな要素やグルーヴもあり、あなたらしい融合が見られるように思います。あなた自身はご自分の音楽をどのように定義しますか?

<インタビュー>夢を生きるんだ――レスリー・マンドキが叶えた夢と託す未来

▲アルバム『A Memory of Our Future』

マンドキ:英国プログレッシヴ・ロックと米国ジャズ・ロックのちょうど中間に位置する音楽かな。いや、ジャズ・ロックのスパイスをふりかけた新しいプログレというべきか。ともかくも、“新たなモダン・プログレ”といえるものだと思う。

--アルバム・タイトル『A Memory of Our Future(我々の未来の記憶)』というのは矛盾しているようにも思えます。これにはどういった意味が込められているのでしょうか?

マンドキ:例えば、少年が思い描いていた未来を20年後に振り返るとしよう。それが“未来の記憶”なんだ。“未来について巡らせた想いを振り返る”ことだ。僕らはウッドストック世代で、楽園を築き上げようとしたけど、それは叶わなかった。そういう意味でも、“かつて思い描いていた未来”を振り返ることは大事なんだ。僕らの子供や孫の世代にとってもね。

--“子供の頃に思い描いていた未来”というものは、今を生きる我々にとって大切なことだというわけですね。「Devil’s Encyclopedia」という曲では、「Social media becomes the devil’s encyclopedia(ソーシャルメディアは悪魔の百科事典となる)」という一節が印象的です。

マンドキ:ソーシャルメディアは人間性を破壊するんだ。こうやってインタヴューをやる場合、面と向かって、名前も明かしてやるだろう。でもソーシャルメディアではみんな匿名なのをいいことに酷い言葉をぶつけ合っている。そろそろその弊害について曲を書かなきゃと思ったんだ。


▲Mandoki Soulmates - Devil's Encyclopedia (Live)

--そうした弊害についてはよく分かります。その一方で、気軽にコミュニケーションがとれ、地球の裏側の人とも簡単に言葉を交わせるようになったのも事実です。

マンドキ:確かにそうだ。君や僕のような真摯な人たちにとってはとても有益だろう。だが、残念ながら世界はそういった人ばかりじゃないんだ。

--では、AIについてはいかがですか?今やAIを使って音楽を作ることもできてしまいます。

マンドキ:AIについては、いろいろ触ってみてはいるよ。世界で今何が起こっているのかを知るためにね。でも、プロとしての創作に使うことはない。AIは“creation(創作)”ではなくて、あくまで“recreation(再制作、再構成)”だからね。

--なるほど。

マンドキ:何かを調べたりチェックしたりする時には速くて便利でとても役に立つけど、同時に極めて慎重でなければならないよ。創作のためにはインスピレーションが必要だが、時に不便や制限というものがインスピレーションを掻き立てる。そういう意味でも、僕はAIの愛好家ではない。どんなものかを知るために試しているけど、それだけだ。

--先ほども少し話に出ました「Matchbox Racing」ですが、ロサンゼルスへの憧れが綴られ、フランク・ザッパやドアーズの名前も出てきます。ニューヨークではなくロスに憧れていたんですか?

マンドキ:太陽が降り注いで、気候も素晴らしい。そんな街でイージーライフを送りたいと思っていたんだ。10歳の頃にそんな夢を見ていたよ。


▲Mandoki Soulmates - Matchbox Racing (Live)

--この曲には「Don't dream your life, but live your dreams(人生を夢見るのではなく、夢を生きるんだ)」というラインがあります。これはお父さんからのメッセージとのこと。

マンドキ:そのとおりだ。父からのメッセージであり、僕から僕の子供たちへのメッセージでもある。父は僕が16歳の時に亡くなった。父は死の床でこう言ったんだ「息子よ、大切なのは、孫たちが検閲された新聞を読まないでいいように、自由を享受しながら成長していけるようにすることだ。」 僕はこう返した「お父さん、それは難しいことだよ。だって僕らは鉄のカーテンの中で生きているんだ。」すると父は言った「いやいやいや、実現できるはずだ。鉄のカーテンなんて気にするな。その外に行けばいいんだ。夢を生きるんだ。人生を夢見るのではなくて。」 そのー時間後に父はこの世を去った。このメッセージを残してね。それ以来、この言葉は僕の人生のスローガンになったんだ。

--夢を生きる。夢見たことを実際の人生として生きるということですね。そういう意味では、お父さんの言葉を盛り込み、娘さんとメロディを作った「Matchbox Racing」という曲をこの世に出したことは、とても大きな意義があるわけですね。

マンドキ:次の世代のために、世界を変えたいと本気で思っているんだ。父の遺志を継いで。より良い世界に、より平和で、より思いやりがあって、より理解し合えるような世界に。そういう意味でも、『A Memory of Our Future』は僕にとってとても大切な作品となったよ。

Text & Interview : 石川真男

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