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<インタビュー>大森元貴、3rdデジタルシングル『絵画』で “おでかけ” した場所から見た自分自身とMrs. GREEN APPLEの今
Text & Interview: 岡本貴之
Mrs. GREEN APPLEのフロントマン、大森元貴が5月28日に3rdデジタルシングル『絵画』をリリースした。バンドがメジャーデビュー10周年を迎えるなか、リリースもライブも活発に行い、スケジュールがぎっしり詰まっているであろう最中のソロ楽曲のリリースは、異例中の異例。ただ、それこそがチャートアクションなども含め音楽シーンで数々の通例を破ってきたクリエイター・大森元貴の真骨頂なのかもしれない。ソロ作品発表の意図から始まり、ソロアーティストとして俯瞰的に見た自分自身のこと、Mrs. GREEN APPLEのこと。あらゆる角度から存分に語ってもらった。
──最初に少し、先日ビルボードジャパンが発表したチャートの「リカレントルール」についてお話させてください。これは本国ビルボードが行っているルールを参考に、日本独自のポイント減算を導入して、チャート上で新しい音楽に触れてもらう機会をより多く作るという狙いがあります。過去にリリースされたMrs. GREEN APPLE(以下:ミセス)の楽曲を今も聴いているリスナーが多いので、皆さんの旧譜への影響もあるとは思いますが、この新ルールについて、どのように感じられましたか?
大森元貴:リリースから1年も経てば、順位が下がっていくのが普通ですよね。「ライラック」も普通に考えたら下がって当たり前だと思います。このルールが導入されて、どうなるかっていうことですよね。
──大森さんのXでのコメントも、きっと熟慮した上で投稿されたんだろうなって。
大森:僕らのファンは若い人が多くて、10代の子たちには音楽に対するアンテナを張り巡らせてほしいっていう気持ちで、敢えてああいうことを書いたんです。そうすると「これってどういうことなんだろう? 大森さん、何言ってんだろう?」って関心が湧くじゃないですか? たぶん、あれをやらなかったら、チャートのことや音楽のこととかに無関心なまま過ごす10代がいるかもしれないし、それはちょっとなんかな~という思いがあったので、そういう意図で投稿したものでした。
こういうのは触れ方がわからないけども、個人的な見解を。
— 大森元貴 / Motoki Ohmori (@MotokiOhmoriMGA) June 2, 2025
烏滸がましさは大前提として、
きっと2025年の我々にとって大きな影響を与えるであろう改訂。
常に新しい音楽が生まれるわけで、なにを等しいとするかの判断として、とても健全な気がしています。
妥当な悔しさと安堵。…
──なるほど、ありがとうございます。では3rdデジタルシングル『絵画』についてお伺いします。リリースされて1週間ほど経ちましたが、みなさんの反響をどう感じていますか。
大森:ソロ活動は、自分の心身の健康上、やるべきことだと思っていたんです。というのも、やっぱりミセスって“土俵で戦ってる感覚”がすごくあるんですよ。作品の届け方やバフのかけ方が、ミセスはちょっと特殊で。どっちがいいとか、良し悪しの話じゃなくて、いち作家として、より健全にナチュラルに、何も考えずに楽曲を作れる場や時間を設けることは、僕の趣味としても必要なものだったので、それをソロでやりたいという話を何年か前からずっとしていました。ちょうど去年のFCライブツアー【The White Lounge】の最中に「絵画」ができて、「これはソロの曲なので、ソロの座組みをどうか作ってください」ってスタッフに送ったんです。楽曲がずいぶん前にできていたので、今はやっと届いてよかったなという感覚です。
──【MUSIC AWARDS JAPAN】での受賞スピーチで、初日も2日目も「僕は曲を作ることが好きで」ということをおっしゃっていたのが印象的でした。先ほど趣味という言葉もありましたけど、それぐらい好きな曲作りの中で、ミセスで出したい曲とそうじゃない曲は自然と分かれてくるのでしょうか。
大森:分かれてきますね。シェフが人のために出す料理と、家で自分のために作る料理の違いみたいな感じ。好きというか、僕の中では“必需品”みたいな感覚で、「食べるのが好きです」って言うのと変わらないですね。
──それで言うと、「絵画」もただただ、こういう料理を作って食べてみたかった?
大森:作家として「こういう曲を書いてみたいな」っていう思いもありましたし、いざ作り始めてみたら「こういう曲になっちゃった」っていうのもあります。ミセスが今これだけ活動する中でソロ活動も走らせるって、意味わかんないですよね。でも、意味わかんないことをやってみようか、みたいな(笑)。
──ミセスのシングル「breakfast」のリリース翌日に、このソロのインタビューをしているこっちも意味がわかってないです(笑)。
大森:でしょ? それも面白いなと思ったんです。普通、(ミセスの活動の)間を縫うところを、敢えて縫わないでほしいってお願いしたんですよ。
──そんな中でリリースされた「絵画」は、そもそもどういう発想で生まれた曲なのでしょう?
大森:「絵画」は2023~2024年を跨ぐタイミングで書いたもので、ちょうど『紅白』に出させていただいたり、『レコ大』の裏でミセスのツアーも同時進行でやっていたりと、表に出る機会がすごく多かった時でした。自分のコアな部分、内省的な部分というか……何も隠さずにストレートに言うと、奉仕や消費される感覚じゃない、“自分のための音楽”を作っておかなきゃって思って、筆を走らせたんです。出来上がった時に、僕も「ああ、こんな曲になったんだ」「へえ、『絵画』って言うんだ」みたいな、ちょっと客観的な感じがあって。すごくチルでメロウで、ミセスにはない感じだったので、「これは絶対にソロで歌うべきだ」と思いました。
──書いたご自身でも不思議な感覚がある?
大森:「いざ作ってみたら、こうなった」みたいなことは、ミセスでも結構多いです。僕は楽曲を作る時間内で歌詞を考えたいので、普段はあまり考えないんです。なので、すごく短時間でグッと集中して作った歌詞を終わった後に読み返すと、「ああ、こんなこと書いてんだ」って思うことが多いです。
──冒頭の歌詞を聴くと、メロディーに対して言葉をつぶやいてそのまま作っていったのかなという感じを受けます。
大森:口からフッと出た感覚とか、譜割りとか口心地、歌い心地みたいなものを優先して書いた気がします。
──大森さんはトラックから曲を作ることも多いようですけど、「絵画」についてはいかがですか。
大森:トラックから作っていったというよりは、音色に導かれた感じはありますね。冒頭のピアノでもない、ギターでもない不思議な音色をポロンと弾いて、そこからのイメージでなんとなくコードをさらっと歌ったら、ああいう歌詞になっていったので。メロディーが先行する瞬間もあれば、トラックが先行する瞬間もあって、本当に同時進行で作っていきました。
──最初はインダストリアルというか、機械的な冷たい印象を受けたんですけど、聴いていくと血が通ってきますよね。
大森:「冷え切った部屋に1人」というイメージがあって、それが虚しくもあり温かくもあるみたいな楽曲というか、自分で自分を抱きしめてあげる楽曲だと思っています。その虚しさと安心する感覚が交錯する中で、コーラスワークを自分の声でしっかりと入れることで、「結局、自分の話でしかない」みたいなところに繋がるようにしたいとは思っていました。温かみが増していくんだけど、結局、冒頭と歌っていることはなにも変わらないみたいな。切なさと同時に安心もできるような楽曲にしたいという思いは、ふらふらと寄り道しながら作っていく過程で生まれたかもしれないです。この曲は頼まれて書いたわけでもなく、自分が必要だと思って書いた“自分から発信する楽曲” なのに、僕も割と客観視しているんですよね。
──タイアップがあって作る曲は、そこに向かっていけると思うんですけど。
大森:僕はタイアップで楽曲を作るのも大好きなので、ミセスとは逆のことをソロでやっているとは伝わってほしくないんです。例えるなら、仕事から帰ってやる趣味が、たまたま1本化されている感じ。仕事と趣味が同じで、音楽を始めたときから変わらずに音楽作りが自分にとって必要なものっていう。
──お題のない、さらにソロになると大森さんの音楽はこうなるんだっていうのは、ファンのほうが「絵画」で一番感じることなんじゃないかと思います。
大森:僕の中でミセスは交感神経で、ソロは副交感神経だと思っているんですよ。すごくドキドキ・ワクワクできるものがミセスで、安心してホッとできるのがソロみたいな、そんなニュアンスなんですよね。どちらも同じ人からなる自律神経である感覚です。
──それはおもしろい感覚ですね。ただ、ホッと安心できる副交感神経的なソロ曲でありながら、これを表現する上でダンスを見せたかったのは何故なんでしょう?
大森:曲を作っている間も、完成して改めて聴いてみても、どうしてもステップを踏んでる自分しか想像できなくて。「うわ、最悪だ、思いついてしまった!」みたいな(笑)。
──思いついたからには、絶対やらなきゃいけないわけですね(笑)。
大森:そうです、それ以外の選択肢はないので(笑)。4年前に出した「French」はコンテンポラリーで、「Midnight」はヒップホップダンスだったので、それとはまた違った、例えばジャズダンスとか、アクティングとダンスが上手くグラデーションされているような、どこが振りでどこがアクティングか分からない振りにしてほしいっていう話を、s**t kingzのkazukiさん(振付担当)にさせてもらいました。初めからこのイメージだったんです。
やらなきゃというか、「これはやるべきだ」って考えるのを止められない瞬間があります
──一日でダンスを習得したそうですけど、どんな状況だったんですか。
大森:どう計算しても絶対間に合わなかったんで、「これは一日で入れるしかない」って、3時間で振りを覚えて、「はい終わり!」って言って帰りました(笑)。思いついちゃったからには頑張るしかなかった。「French」を出した当時、僕が踊るなんて誰も想像できなかったと思うので、サプライズはそこでひとつオチがついたんですけど、今はきっと「今度はどんな表現をしてくれるんだろう?」って期待してくれる分、そのハードルを越えられるかが課題です。
──そうなるのに思いついちゃうところが……
大森:最悪なんですよ! チェスを打ってる人であり駒でもある、みたいな。戦略を思いついちゃったもんだから駒を動かすんだけど、駒は僕っていう感覚です。ミセスもそうなんですけど、「思いついちゃったからやらなきゃ」みたいな。いや、やらなきゃというか、「これはやるべきだ」って考えるのを止められない瞬間があります。
──でも、歌詞をメモっておくことはないんですよね。多くのアーティストが、言葉をメモってネタ帳みたいにしてるって聞きますけれども。
大森:歌詞をメモったことないです。いや、本当はそうあるべきだとは思います。ちゃんとしたラブレターとか書いたことないんですけど、(歌詞を書くことは)「夜中に書くラブレター」に近いものだと思っていて。書いた後に読み返したら、絶対に恥ずかしくなるじゃないですか。だって日記よりもさらに深いところに行って、自分の思想思考を書き留めるなんて、正気の沙汰じゃないですよ。恥ずかしいものは、気が紛れてるうちに、頭がハイになっているうちに曲にしなければって思ってしまうほうです。
──冷静になって距離ができると、そこを考えちゃうからよくない?
大森:考えちゃうし、もっと思いついちゃう。歌詞という表現に限界がないので。「てにをは」を変えるだけで意味合いがすごく変わるし、僕は歌詞の中で一人称が変わることがよくあるんですけど、「“私”で統一したほうがいいよな」って思ってしまうと、元々のニュアンスからだんだんとずれていく感覚があって。自分が最初に思いついたニュアンスにこそ、すごく大切にしている要素があると思うので、あまり考えすぎないほうがいいと思うんです。
──だから、一人称が “私” って歌っていたのに、次に “僕” になっていたりする曲があるんですね。
大森:たぶんそうです。歌い心地も歌詞の意味合い的にも、僕の中できっと分けている理由がそのときの自分にあるはずなので。歌詞を書き留めておくと、後々の僕が校閲したがるし、そうするとわかんなくなっちゃう。大衆音楽を作る上で、言葉の伝え方はすごく重要だと思うんですけど、考えすぎると、だんだん僕の色が削ぎ落されて、角が取れて丸くなっていくと思うんですよね。もちろん最終チェックや校閲は入れますが、なるべく新鮮な気持ちを残しておきたいんです。
──そう考えると、「絵画」冒頭の散文的な始まりは、校閲する前段階の歌詞に思えてきます。
大森:まあ、校閲の仕方もわかんないですけどね。「どういう意味!?」って、僕ですら今でも思いますから(笑)。でも、最初に浮かんだニュアンスってきっとあるんですよね。
──この取材が「breakfast」のミュージック・ビデオが公開された直後なので伺いたいんですけど、あちらは大勢で明るく踊ってるじゃないですか? 今は踊りたい衝動がすごくあるんですか?
大森:いや、あれはミセスでのバランスを考えた結果ですね。前作が「天国」っていうぶっ飛んだ、インナーなダークな曲だったんで、その後は楽しい音楽を聴きたいじゃないですか。この2曲はほぼ同時期に作っていて、「『天国』の次がこれかよ!」って笑っちゃうほど、一番ありえないって思ってもらえる曲を出したいと思ったんです。それもすごく大事なことで、僕が間口になった「天国」の後は、3人でちゃんと面を取る曲にしたかった。時系列で並べても、自分の中のバランスを見てこうなりました。踊りに力を入れようっていうことじゃなくて、たまたま「こういう表現をするべきだな」と思ったものが重なっちゃっただけです。でも、それも面白いかなって。
全部剥がして本心に近づいていけば、そういう欲求にたどり着くと思います
──「こたえあわせ」はセルフカバーになりますけど、ご自分で歌ってみて気づいたことはありましたか。
大森:時系列で言うと、僕が一人でレコーディングしたほうが先なので、どちらかというと子どもたちが歌っているのを聴いて、ハッとした部分が多かったですね。喜怒哀楽がはっきりしていた年代に感じていた、「悲しいことは悲しい」「寂しいことは寂しい」「うれしいことはうれしい」っていう感情が、大人になると複雑に細分化されてモヤモヤして、この曲を聴くと僕はそれを思い出すので、ちょっぴり胸がきゅっとするんです。でも、子どもたちの歌を聴いて、ピュアさとか自分が子どもの頃に持っていたもの、人間が持つ根本的な部分には大きなエネルギーがあるっていうことを再確認しました。
──ここで歌われていることやその気持ちって、大森さんが音楽を始める小学6年生よりも前のことなんですか?
大森:はい、そうだと思います。
──その頃のピュアな気持ちは、音楽を知ったことでどう変わっていったんでしょう?
大森:抱えているフラストレーションとか、どう表現したらいいかわからないもの、自分というものが、音楽というツールを通して表現できるようになった点が一番大きな違いだと思います。
──「こたえあわせ」で、〈褒めてね。〉とか〈見ててね。〉って歌ってるじゃないですか?「絵画」では〈愛してほしい〉って歌っていて、何かを求める気持ちが今の大森さんの中にあるのかなって。そこが非常に興味深かったです。
大森:ああ~、確かに! でも、みんなそうじゃないですか? 言えないだけで、自分の欲求を紛わせながら日々生きていくことに、人は尽力していると思うので。いろんなベールを剥がしたら、「頑張ってる姿を見てほしい」とか、「褒めてほしい」っていう、子どもの頃に思っていた気持ちが、なんだかんだ残ると思うんですよ。僕がこれだけ活動してるのも、圧倒的に褒めてほしいからですし。
──そこはハッキリ言うんですね。
大森:もちろん!「すごい!」って言われるために、すごいことをやってるだけです(笑)。届けたい相手もいますけど、せっかく歌うんだったら褒められたほうがいいし、せっかくテレビに出るなら「観たよ!」って言われたいじゃないですか。そういう感覚は誰しもあることですよね。だって、せっかく書いた記事はたくさんの人に読んでほしいじゃないですか?
──もちろんです!
大森:全部剥がして本心に近づいていけば、そういう欲求にたどり着くと思います。でも人って、いつしかそんなことを言うなんて、バカバカしいと思うようになっていくんですよね。そういう意味で、子どもたちが歌う「こたえあわせ」を聴いて、「あ、そうだよな……」って思わされました。歌の内容に全然、嫌味がないじゃないですか? 言葉がストレートに入ってくるからこそ、グッとくる部分がある。僕の表現って複雑というか、いろいろ行き来する感情が細分化されていて、そこが僕のセルフカバーとてれび戦士たちが歌ってるバージョンの違う部分です。子どもたちは、悲しいや楽しいがハッキリしてるんですよね。僕には「寂しいんだけど楽しい」とか「楽しいんだけど寂しい」とか、楽しいにもいろんな楽しいがあって、「この楽しさっていつまで続くんだろう?」っていう余計な道草を食うようになるんですけど、子どもたちにはまだまだピュアな感覚がある。それが比べられて、ハッとしました。
──「絵画」と「こたえあわせ」2曲で1つの作品として、大森さんにとって3rdデジタルシングル『絵画』はどんな作品になりましたか。
大森:すごく等身大というか、武装も着飾りもない、本当に血が通った僕みたいな作品です。ミセスもそういう側面があるので、こう説明するのも正しいのかわからないんですけど、ミセスが化粧をしているんだったらソロはすっぴんみたいな感覚です。ソロは等身大の“より情けない” 自分みたいな感じです(笑)。
──すごく人間味があるというか。もちろん、ミセスにないわけじゃないですけど。
大森:ミセスは、表向きはすごくキラキラして見えるだけで、同じ人が書いてるから歌詞の部分は変わらないです。パブリックイメージや作品性の違いで言うと、ミセスのほうが心拍数が速くてちょっと息が上がるというか。やっぱり交感神経みたいなイメージですね。ソロは平熱っぽい感じです。
──ソロ活動を発表したときに、「絶対的な帰る場所があるからこそ」とおっしゃっていました。その帰る場所であるミセスはいまや日本の音楽界のランドマークぐらいの大きな存在になっているわけじゃないですか? ソロとしての大森さんが少し離れた場所から俯瞰して見たときに、Mrs. GREEN APPLEという帰る場所はどう見えているんでしょう?
大森:小さい頃の友だちと始めた会社が、とんでもなくデカい、上場企業になっちゃった感覚です(笑)。帰る場所なんだけど、ものすごく背筋が伸びる、重たい場所でもあります。それと同時にやっぱり若井(滉斗)と藤澤(涼架)がいることの安心感、頼もしさに繋がります。だから、ミセスは僕が甘えられる場所なんでしょうね。若井と藤澤のエッセンスが加わることによって、ミセスが大衆化しているとも思うんです。僕がナチュラルに曲を書いたら、「絵画」のような曲になるわけで、それを多くの人に届けるためには、言葉を選ばずに言えば、彼らのパッケージ性、彼らが持っている大衆性が必要です。(ソロからミセスに帰るのは)なんか出向先から本当の会社に戻る感覚というか。
──現在、出向中なんですか(笑)?
大森:はい、出向中(笑)。でも本当に、ソロ発表の時に言った「家とおでかけ先」っていう言葉はスタッフとの会議でも言った言葉なんです。「これはおでかけなんです」って。遠くに行きたい時もあれば、近所を散歩したくなる時もある。今後の方向性も「おでかけしたくなったら言います」って言いました。
──ソロライブをやりたいとか、そういうことにはならないんですか?
大森:今のところ、現実的じゃないのかなって思ってます。でも、う~ん……(スタッフに向かって)ねえ(笑)? でも、「いや、それはしないです」とは断言しないでおきます。やっぱり可能性はあるし、本当にスケジュールのこととか考えずに言うなら、やるべきだと思ってるから。どんな形でもよくて、小さめの会場とか、弾き語りもいいかも。ソロの良さってそこにあると思うので。
自分が自分であるために
そのバランスをどう取るか
──大森さんが表現することって、曲作り、ライブパフォーマンスだけじゃなくて、映画に主演したり、最近はテレビの冠番組が放送されたり、こういうインタビューで発信した言葉に関しても、ファンの人はすごく一喜一憂したり、興味深いと思うんです。今回の2曲を聴いたときに、やっぱり個人的な大森さんの心情をすごく想像したんですけど、今の大森さんは“表現する”ということに何を感じているのでしょうか。
大森:僕にとって必要不可欠なことなので、どういう環境であれ、どんな形であれ、表現しつづけていくと思います。ここまでミセスが大きくなると、普段あまり音楽を聴いてない人たちにも届いている実感があるんですよね。例えば、家族と車で旅行するときに、プレイリストやチャート、ランキングの音楽を流す人たちもたくさんいると思ってて、そういう人たちにも僕たちの音楽が届いた感覚があります。でも、商業音楽と芸術音楽、商業作家であり芸術作家でもあることを考えると、表現したいことと表現するべきこと、導くべきもののバランスがすごく難しいとも思っています。
数年前まで、僕は“導くこと”に関してはすごく無頓着というか、自分は関係ないって思っていたんですけど、発言一つにしても楽曲一つにしても、「そこまで届くんだ?」っていう経験がたくさんあって、ちゃんと自覚しなきゃと思ったら、「僕らが作る音楽がどのような影響を与えるのか」が切っても切り離せない話に急になってきちゃって。でも、僕が音楽を始めた時、誰も聴いてくれていないところで自分をどう表現するかを悶々と考えながら作る音楽が好きだったし、自分が書く音楽を好きでいたいから、そこが狂っちゃうと違うなって思ってます。音楽を始めた頃の自分と、今いろいろなものを背負ってる自分とのせめぎ合いみたいな。そのバランスを取るのが最近大変というか、負荷がかかってるなっていう気持ちは正直あります……僕、「ライラック」がずっとチャートで1位って聞いて、「どこの誰が聴いてんの!?」って不思議なんですよ。
──ええ! どういうことですか?
大森:目に見えないところで誰かが聴いてくれているっていう経験が、僕も初めてなんですよね。ライブハウス時代はCDやチケットを手売りでやって、直接お客さんとも話をしてました。そこからデビューして、去年はスタジアムでライブまでやらせてもらって、あれだけ多くの人たちを前にして、「こんなにも多くの人が聴いてくれてるの!?」みたいな(笑)。全然変な意味じゃなくて、「果たして一体、誰が聴いてんの?」って不思議な感覚です。
でも、友だちがカラオケで歌ってたからとか、街で聴いたからとか、二次的影響がないと、こんな聞かれ方は絶対起こらないと思うし、他にも音楽がある中で、きっと一番身近な音楽として選択されているから、こういう結果になってるとも思います。自分たちがチャートの上位にいるのは、「ちゃんと選ばれているから」なのか、それとも「リスナーの選ぶ力が弱くなってるから」なのかって、よく考えるんですよね。本当はそんなこと考えなくていいかもしれないんだけど、その課題は僕の中ですごくあります。だって、「天国」が1位を獲ったことが僕は本当にびっくりで。ああいう曲は普通1位を獲らないですよ。2025年時点の僕らには大変ありがたいことだけど、5年先、10年先の娯楽、嗜好品としての音楽の優先順位が、どんな風に変わっていくのか、いち音楽家として危惧してはいます。そういうことを最近はずっとぐるぐる考えてます。
──冒頭の話ともつながりましたね。
大森:そうですね。冒頭にも言ったように僕らのファンには若い子たちもいれば、もっと年齢が上の方々もいらっしゃって。「初めて買ったCDがミセスです」とか「初めて行くライブがミセスです」、「初めて推すアーティストがミセス!」っていう話を本当にありがたいことにたくさん聞くんですけど、それはすごい責任でもあるなと。
──そうやってミセスの音楽と出会ったファンの方々は、すごくミセスの音楽、大森さんの作品を心の拠り所にしてる人が多いんだなって思うんですよ。
大森:それは本当にありがたいですね。すごくうれしいです。
──そこに対して今おっしゃったように責任を感じたりもしている大森さんが、自分の拠り所としているものは何でしょうか? ご自身が作る作品の中にありますか?
大森:それが僕もわかんないんですよ。それも課題ですね。音楽が拠り所のはずです。もっと言うと、自分の表現が拠り所のはずだし、そうであるべきだし、実際そうなんです。でも、そのせいで、いつかすごく寂しい思いをする日が来る予感がしてるんですよね。やっぱりこの調子は絶対に永遠に続かないし、(作品の)良し悪しも一度決められてしまうと、常に評価対象になる。でも、実際はそういうところで音楽を作ってないじゃないですか? 自分のために始めた音楽が、誰かのため“だけ”になるとおかしくなっちゃうから、自分のためでありたいし、そんな音楽で評価されるのは、すごく酷なことです。今はありがたいことに良い評価をいただけているっていう感覚でいるようにしています。ワクワクしたくてやっていること、楽しみたくてやっていることも、いつか体に馴染んでくるもので、新たな刺激ばかり追い求めたら、徐々におかしくなっていくのかなと。ミセスがMCをしてアーティストを迎える特番を組んでもらうなんて、だいぶおかしな話だと思うんですよね(笑)!
──バンドが冠番組を持つなんて、すごい話ですよね。
大森:僕は見たことないですもん。言ってしまえば、もう行き過ぎている証拠じゃないですか(笑)。いろんな方のお力添えがあって成立しているのがものすごくありがたく、うれしい反面、同時に恐ろしいことだなとも思います。「売れなくなるのが怖い」っていう意味じゃなく、自分の表現や自分の核みたいなものって、大人になる過程、生活が変わっていくタームで生まれると思うんですけど、こういう仕事をしているとなかなかなくて。僕らはデビューも早かったので、いち作家、いち表現者として追求することは多かったけど、一人の人間として何かを追求することも、僕はもっとしていかなきゃいけないと思う。“自分が自分であるための” 拠り所が、自分の作品を生み出す、クリエイティブになるところにあるのは、作家としては素晴らしいことだけど、すごく恐ろしいことだなと。
──しかもそれが評価対象になるっていうのは、アンビバレントな感情が生まれますよね。
大森:そうです、そうです。でも、それがうれしい自分もいるんですよ。それも含めてアンビバレントっていうか、すごく双極な感情です。そのバランスをどう取るかが、やっぱり課題ですかね。
──課題っていうと、ちょっと重い着地になっちゃうかもしれないですけど。
大森:「それが悩みっすねえー」ぐらいで(笑)。
──とはいえ、ビルボードチャートもそうですけど、今年に入ってから褒められまくっているわけですから。
大森:いや~、本当にありがたいことです。もうちょっと楽に活動できる術をそろそろ編み出してもいい気がしますけど(笑)。どれもお願いされてやっているわけじゃないし、自分が書きたくて書いてるので、それが上手く伝わるといいな。たまに「忙しいなら休めばいいじゃん」って言われるんですけど、「そんな簡単な話じゃねえ」っていう(笑)。休むよりも動き続けるほうが、“今日の僕” にとっては価値が高いんですよね。ミセスはすごいことをやっているという自負があるし、「すごい」と言われたからじゃなくて、もともと「すごい」と思っていることを届けて、それに評価をいただけて、大変ありがたいことですよね。正直、「やっと始まったな」「やっとだね」っていう話をメンバーとするぐらい。それと同時に、2人は評価されればされるほど「どうしよう」って背筋が伸びていくんですけど、結局、僕らが気にするところは変わらないんですよ。自分のピアノプレイにどれだけの人が耳を傾けてくれるのか、どういうピアニストでありたいかは、藤澤の中にあるだろうし、若井も僕もそう。僕はどっちかっていうと見られるのは好きなので、「どうしてやろうかな」って天邪鬼な発想でいけるんです。だから、全然、不健康じゃないんですよね。僕が健康であるためにずっと走り続けているこのシステムが、僕の人生において絶対ヤバイだろうっていう……それも悩みっすかねえー(笑)。
──そう言いながらも、止まることはなさそうですよね。
大森:うん、より多くの人に僕らの音楽を届けたいっていう思いはブレないので。だからこそ大衆音楽を作るべきだと思って作っているし、そこがブレなきゃいい。そういう自問自答を、毎日シャンプーしながらしています。
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