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<インタビュー>大﨑洋(吉本興業)×増井健仁(WMJ)~芸人の居場所を作り続けてきた大崎会長の描く未来

インタビューバナー

 ダウンタウンの才能を見出し、彼らのヒットの立役者として知られる大﨑洋。現在、吉本興業ホールディングスの代表取締役会長を務める大﨑洋が、2023年に初の著書『居場所。』を出版した。番組や書籍、CDなど芸人の居場所を作り続けてきた大﨑が語る、芸人への想いとは。テレビ番組『4時ですよ〜だ』のプロデュースから、『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』、そして2025年に開催される大阪万博まで、増井健仁(ワーナーミュージック・ジャパン)を聞き手に迎え、インタビューを行った。(Interview & Text:加藤一陽 l Photo:Tatsuro Kimura)

競争相手がいないところを探した

増井健仁:今回は『居場所。 ひとりぼっちの自分を好きになる12の『しないこと』』の刊行を記念して、大﨑会長に本のことはもちろん、お笑いと音楽の融合についてから、吉本興業が現在取り組んでいるビジネス戦略などまで幅広く伺えればと思っています。“お笑いの会社”だった吉本興業が、音楽や出版、映画、デジタル・コンテンツなどを手がけるようになって、いまや日本を代表するエンタメの総合企業に発展しています。それを牽引してきた大﨑会長ですが、その手腕を紐解いていくために、まずは会長が見出されたダウンタウンさんとのエピソードからお伺いさせてください。『居場所。』でも書かれていらっしゃいますが、会長は松本人志さんと浜田雅功さんを見て「絶対にこいつらは面白い」と感じたものの、デビュー当時は評価されず、まさに“居場所”がなかった。それで「場を作ってやらないと」ということで企画したのが、1987年4月にスタートしたテレビ番組『4時ですよ〜だ』でした。そこでダウンタウンさんの人気が爆発した、と。


大﨑洋:全部しゃべってるやん(笑)。


増井:ここからが聞きたいことなんです(笑)。会長は『居場所。』に、「場所が変われば、ルールも変わる」「ルールに合わないなら、別の場所に行けばいい」という趣旨のことを書いていらっしゃいますよね。まずはこの発想がどこからきているのかを教えてください。


大﨑:まあ、“逃げて逃げて、逃げまくる”みたいなことですね。競争相手がいないところに行く。大阪でやっていると、先輩芸人やよその事務所の芸人とかがいるから勝負になって、負けることもあるでしょ。でも、例えば岡山に行ったらいないわけです。僕自身、吉本興業に入社して、大阪の放送局に毎日通って、負け試合が続いていたんですよ。「また負けた。仕事取られへんかった」と。「じゃあ、大阪じゃないところ……滋賀や岡山、広島で仕事するか」と。競争するのも嫌だったので、たまたまそれを続けていっただけで……答えになってないよね?


増井:なっています(笑)。ダウンタウンさんの居場所として、16時放送の『4時ですよ〜だ』を作ったわけですね。たぶん当時のセオリーとしては、テレビでみんなが狙うのは19時からのプライムタイムだと思うんです。その中で、夕方の時間帯に着目したのはなぜだったんですか?


大﨑:当時の16時って、各局が再放送を流している時間帯やったんです。若者は学校が終わって部活をするか、家に帰る途中。父さん方は働いている。お母さんは晩ご飯を作ったり、おつかいに行ったりしている。だから、その時間テレビを観られるのは、おじいちゃん、おばあちゃんだけ。つまりあまりお客さんがいない枠だったんです。それで逆に「そこならチャレンジして失敗しても、そんなに傷は深くないだろうな」ということで、毎日放送さんが、「大﨑ちゃん、16時の帯だったらあげられるけど、どうする?」と言ってくれて。


増井:もともとお客さんがいなかった枠に放送した番組が、のちに女子高生を中心とした社会現象の場になるわけですね。会長にはその未来は見えていたんですか?


大﨑:いやいや。やはり視聴率は取れないだろう、と。そんなことは、タレントのみんなには言えないけどね。でも、大阪・ミナミのグリコの看板がある戎橋の北側、ビルの3階の目立たないところに小さな劇場があったんですよ。心斎橋筋2丁目劇場。そこを起点として、若い松本人志や浜田雅功、今田耕司、東野幸治たちのパワーで、戎橋界隈に若い女の子たちが集まる現象は作れるんちゃうかな、と思って。


増井:通常のテレビで活躍する芸人さんとは違うパターンで、若手芸人さんの活躍の場所を作られたという感じ。『4時ですよ〜だ』はその心斎橋筋2丁目劇場から生放送をしていました。これがすぐ、人気が爆発します。


大﨑:半年くらいはかかったかな。


増井:『4時ですよ〜だ』が始まって5カ月後には、ダウンタウンさんは大阪年金会館で【DOWNTOWN SCANDALS】というコンサートを開いているんですよ。


大﨑:あっ、そうやっけ?


増井:このタイミングで、会長がダウンタウンさんに音楽を取り入れた理由が知りたくて。ダウンタウンさんにとって、音楽はまだ身近なものではなかったと思われるのですが。


大﨑:彼らはいずれ東京に行き、そのあとは世界に行くんやから、大阪にいる間にいろいろなことを経験させたいって思っていたんです。そのうち歌を歌ったり、バンドをしたり、絵を描いたりするかもしれないわけだから、今の間にチャレンジさせようと。松本くんに「ピアノをやらないか?」と言ったこともあった。一瞬はやりかけたけど、長続きはしなかったかな。


増井:ダウンタウンさんと音楽との接点は、大﨑会長による将来的なビジョンがあったうえでの、「チャレンジさせてみよう」という思いがきっかけだったんですね。


大﨑:当時は漫才ブームも終わって、『THE MANZAI』も終わって……という時期でね。漫才ブームは2年か2年半くらいだったかな。僕としても「当分は漫才が来ることはないだろうなあ」「じゃあ、ダウンタウンが2人でできることはなんやろう?」と考えていたんです。『ブルース・ブラザーズ』じゃないけれども、「メインのバンドの前座でやっているのに、ちょっと歌ったら、メインのバンドを飛ばしてしまうくらいの感じにできたらなあ」なんて思っていて。


増井:それからダウンタウンさんは1993年に東京に進出しました。人気番組『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』の観覧に坂本龍一さんが来て、その後、松本さんがフリー・トークで「世界の坂本に曲を書いてもらって、GEISHA GIRLSという名前で全米デビューするんだ」とボケたら、それが実現します。GEISHA GIRLSは94年に全米デビューを果たしますが、『4時ですよ〜だ』のときにはたぶん、こうしてお笑いの中にほかのエンタメ要素を加えていくような発想がダウンタウンさんの中になかったと思うんですよ。つまり、会長の影響なのかな、と。ダウンタウンさんが東京に行くまでの間に、お二人とお笑い以外でどういう会話をされたんですか?




大﨑:本にも書きましたけど、デビュー1、2年目くらいのときにね、ABCホールの楽屋で「なあ、音楽やったり、映画を作ったり、本を出したり、いろいろやろうね」と松本くんに言ったら、「なんでそんなに悲しいことを言うんですか?」「僕は100m走を一生懸命、何回も何回も走ろうと思っていたんです。やっと“笑い”というものを見つけて、それをずっと一緒にやろうと思っていたのに、大﨑さんはどうして『3段跳びもやろう』『リレーもやろう』って言うんですか?」と返してきて。要は「直球の笑いだけで勝負したい」「音楽の力も、芝居やコンサートのような衣装の力も、台本や照明の力も何も借りたくない」と。「2人の会話だけで成立する直球のスタイルを貫きたいのに、どうしてそういうことを言うんですか?」となって。だから、その意味では考えが違ったな。ただ教授(坂本龍一)に言った言葉は完全に松本くん発の言葉で、「まさか」と思った(笑)。教授も「やりましょう」となって。


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テレビ以外のものを使えば世界にも行けるかもしれない

増井:94年の秋には、フジテレビでダウンタウンさんがMCの『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』が始まります。番組の初回はGEISHA GIRLSとして、松本さんご自身も坂本さんやテイ・トウワさんと一緒にゲスト出演されました。その後は浜田さんと小室哲哉さんのH Jungle with tが大ヒットし、松本さんが詞を書いた『チキンライス』のヒットなどにも続いていきますよね。音楽番組のMCをやりながら音楽活動もやっていく芸人さんというのは、新しい存在だったと思います。




大﨑:テイ・トウワくんのCDを出したりしていたときに思ったんですけど、CDって全世界のセールスの数字が送られてくるじゃないですか。「ヨーロッパのどこかの街のレコード屋で2枚売れた」「ロンドンで8枚売れた」「ザンビアで1枚売れた」などを知ることができるわけです。それが新鮮で、面白くて。「それをダウンタウンに置き換えたらどうかな?」みたいなことにはすごく興味がありました。「そうか、テレビは日本にしか届かないメディアなんだな。CDや映画を使ったら、ダウンタウンのことを好きになる人を世界中で見つけられるのと違うか?」って。


増井:「テレビ以外のものを使えば世界にも行けるかもしれない」と感じられたんですね。


大﨑:そうそうそう。それはすごく思ったな。本か、映画か、CDか、ビデオか……みたいな。本は翻訳して、とかね。


増井:その“お笑いを広めるために別のフォーマットを使う”という発想に至るまで、ほかにもヒントはあったんですか?


大﨑:漫才って、なんばグランド花月という800人くらいの会場でやるでしょ? 当時の漫才って、基本は今も変わらないけど、「はーい、どうもこんにちは!」「大﨑です!」「増井です!」と舞台の袖から声を張って飛び出してくるのが主流で。でもダウンタウンは、舞台袖から飛び出して来るわけでもなく、声を張るわけでもなく、ニコニコするわけでもなく、そおっと出てくるわけです。それもあって劇場で受け入れられないダウンタウンを見て、「彼らが受け入れられる場所を作らなければ」と思ったわけです。それでいろいろ考えて、例えば800席くらいの劇場でビックリしたことを表現するには、(大きく声を張って)「ビックリしたあ!」とやらなければならない。でも心斎橋筋2丁目劇場はキャパシティ146人の小さな会場だから、眉毛を上げるだけでも、ビックリしたことを表現できるんですよね。「そうか、大きい劇場は素晴らしくて、小さい劇場はアカンというわけではない。劇場にも大と小というフォーマットの違いがあるわけで、違うメディアや」「ダウンタウンの表情や姿、ネタを一番表現できるのは、146席の2丁目劇場というメディアなんじゃないか」。それで2丁目劇場で……と思って劇場を探したのか、劇場を見つけてから思ったのかは忘れましたけど。そこに戦術とかはなくて、何となく勘が働いて。


増井:なるほど。


大﨑:あと、『ブルース・ブラザーズ』で、ジョン・ベルーシがシカゴかどこかの田舎から都会に出るときにすごく嫌がったのと一緒で、浜田くん、松本くんも大阪から東京、東京からソウル、上海、ハリウッド……とかわからないけど、そういうところに行くとなったらまあ嫌がるよな、と。東京に行くのだって、ものすごく嫌がりましたから(笑)。だから「万が一、東京に行かないって言っても済む新しいメディア……劇場ではないメディアを探しておかなアカンな。映画やCDとかやったら、言葉の問題もなくいけるかなあ」などは考えていたかな。


増井:『HEY!HEY!HEY!』は音楽番組にもかかわらず、トーク主体の内容でした。しかも、浜田さんに頭を叩かれたら売れるというジンクスができて、新人のミュージシャンは浜田さんに頭を叩かれにいっていたんですよね。この瞬間から、今まで音楽番組の中で曲の紹介役だったMCが、ミュージシャンと対等な存在になり、さらにそこに掛け算が生まれる。そういう新たな仕組みがここで生まれたと感じるんです。会長としては、「そうなるだろうな」とか「結果的にそうなった」とか、何か感じていたことはありますか?


大﨑:まったく「そうなるやろうな」とは思ってもいなかったなあ。ただ最初の収録を見て感じたのが、2丁目劇場を大きくしたようなところに、ゲストとしてミュージシャンが来ているみたいやな、くらいで。だから「2丁目劇場でやっていて良かったな」くらいの感じ。


増井:では会長の中で、『HEY!HEY!HEY!』は『4時ですよ〜だ』の延長線にあるんですか?


大﨑:僕の中ではね。それに『4時ですよ〜だ』の前に、『今夜はねむれナイト』という関西ローカルの深夜番組があったんです。太平サブロー・シローが司会のね。そのときに、笑いと音楽の融合ではないけれど、「音楽と笑いを同じ土俵に置いたらどうなるか?」みたいな楽しさや発見があったらなと思って、仲が良かった憂歌団の木村充揮くんに「木村くん、ダウンタウンとコントして、そこで1曲歌うってどう?」と声かけたら、「やる、やる!」となって。それでやっていたこともありましたね。


お笑いとエンタテインメントの融合

増井:ここからは、吉本興業さんのエンタテインメント・ビジネスについてフォーカスを当てていきたいと思います。まず伺いたいのは、1994〜1995年に松本さんのエッセイ『遺書』が250万部、『松本』が200万部。H Jungle with tは『WOW WAR TONIGHT 〜時には起こせよムーヴメント』が213万枚、『GOING GOING HOME』が123万枚などなど、さまざまなパッケージで驚異的な数字を叩き出しています。この頃が、音楽、出版、映画、デジタル・コンテンツなど、会長がかねてより思い描いていたビジョンを吉本興業が実装化して、現在のような総合エンタメ企業に発展するきっかけとなった時期なのかな、と。


大﨑:その前の話として、1981年1月1日にザ・ぼんちがフォーライフ・レコードから出した『恋のぼんちシート』がすごいなと思っていたんです。作詞、作曲を担当した近田春夫さんがレコーディングのときに喋っていたこと……どんな話をしていたかはもう覚えていないけれど、その影響があったかもしれない。あとは、もう亡くなってしまったけれど、チェッカーズのコンセプトや衣装を担当した秋山道男さんと一緒に京都でフラフラしたり、坂本龍一さんと香港で夜中にラーメンを食ったりしたりしていて、そういうときに話した雑談の影響もあるかもしれないな。それとシカゴの『セカンド・シティ』というプロダクションがインプロビゼーションのお笑いみたいなのをやっていたんです。「しゃべくり漫才じゃない、近代的な漫才の発展系があるとしたら、その辺りにヒントがあるんちゃうかな?」とは感じていたかな。「ダウンタウンも、そのうち海外に行ってくれたらな」という勝手な思いもあったし。




増井:そういったものが、お笑いにさまざまなエンタメを取り入れていくきっかけになったってことなんですね。


大﨑:夢というか、イメージとしてはね。実際にそれがどこまでできたかと言ったら、ほとんどできてないんですよ。ブルース・ギタリストの山岸潤史さんと仲が良いんですが、以前『オレたちひょうきん族』のときに、「西川のりお・上方よしおと山岸さんが一緒にバンドをやったら面白いんじゃないか」と考えたことがあるんです。漫才の合間によしおが歌ってのりおがラップ調でギャグをやる。そうすると、音楽と融合するというか、完成するんじゃないかと思って。で、のりお・よしおはそれはそれで面白がってはくれたけど、長続きはしなかったね。漫才師には漫才師のプライドがあるでしょ。そのときは楽しいけれど、ずっとやっていくつもりはないわけ。だから、なかなか上手くできないなと思っています。漫才師をミュージシャンにするというよりも、音楽とお笑いをアウフヘーベンさせてお笑い側に寄せるというか。「カレー食べたいな」「うどん食べたいな」「ほなカレーうどん食うか」みたいな感じのアウフヘーベンができなかったなという悔しさは、今もあります。


増井:そうなんですね。


大﨑:それに、ある時期に、週2回、1回2時間くらいかけて徹底的に権利ビジネスについて僕なりに勉強したことがあるんですよ。それがもう、知れば知るほど面白くて。「音楽って進んでいるよなあ」「世界で戦うってこんなことなんや」「こんなところにも権利ってあるんや」「こういう“世界はこういう物差しや”というところに出ていくのは、面白いなあ」と思いました。そういうところも、現在につながっているのかもしれません。


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『火花』や『ドキュメンタル』、デジタルへの取り組み

増井:直近の吉本興業さんのエンタメ未来戦略で僕が画期的だと思ったのは、吉本興業さんが提唱する「Laugh & Peace」と、韓国のCJ ENMさんの「ONLY ONE」という2つの精神が交わったLAPONEエンタテインメントさんです。この取り組みは日本ではなかなか起きていないですし、アジアへ向けたビジョンにつながってくると思います。


大﨑:LAPONEエンタテインメントは、社長の崔信化くんが責任を持ってやっている仕事なので、そこまでは関わっていないんですよね。ただアジアということだと、ウチはもともと、韓国でS.M.entertainmentを創業したイ・スマンさんと一緒に制作会社を作っていたこともあります。イ・スマンさんがまだ中学生くらいだったBoAちゃんを連れてきて、「今度、この子を日本でデビューさせたいんだ。大﨑さん、一緒にやらない?」と言ってきたりしてね。でも「うちの会社、金は出せないからやれない」って。音楽ビジネスをやっていた会社でもないし、ノウハウもないから仕方ないんですけどね。ただ、それからも韓国の歌謡曲や伝統的な音楽を日本の文化と融合させて面白くできないかな?などは素人なりに考えてはいて、今回、CJ ENMさんと知り合って、という流れですね。


増井:“デジタル”についても聞かせてください。又吉直樹(ピース)さん原作の小説『火花』が、いち早くNetflixオリジナルとしてドラマ化されました。Amazonプライムビデオでは、オリジナル・コンテンツの『HITOSHI MATSUMOTO presents ドキュメンタル』海外版が、メキシコやイタリアなどでもヒットして、ドイツではコメディ賞まで獲りました。初めて日本のお笑い番組のフォーマットが輸出された事例だと言えると思います。会長がダウンタウンさんを見たときに感じた、「2人なら世界に行ける」という言葉が実現した瞬間だったと想像します。


大﨑:『火花』に関しては、「漫才師が芥川賞か……すごいなあ。これをドラマ化、映画化したら儲かるんちゃうかな」と、岡本君(岡本昭彦社長)と話していて、それから岡本君が「いいですねえ!」といろいろ考えてくれて。『ドキュメンタル』についても、現場のマネージャーたちに任せているわけで、「こんなんやります」と報告だけ聞いていて。ただ一方で、アマゾンジャパンの社長とは一緒に食事をしたりとか、付き合いはしていたんです。僕はこんな感じやから、ホンマに思いつきで言ってしまうんやけどね。岡本君はそれを「いいですねえ!」と聞いて、あとから「こんなんになりました」と言って持ってきてくれるからすごいなと思っています。




『大阪・関西万博』で表現したい景色

増井:吉本興業さんは政府や地方自治体、民間企業よりも先に地方創生に取り組まれていますよね。2011年にはすでに、“住みます芸人”を各都道府県に住まわせる『あなたの街に住みますプロジェクト』もスタートさせていて。この戦略は?


大﨑:いつやったか…、12月30日かな。仕事が終わったあと、岡本君と銭湯に行ったんです。そこで2人でサウナに入ってボーッとNHKの夜9時のニュースを観ていたら、「地方が疲弊していて、少子高齢化も進んで大変だ」という話をしていて。「俺らは雇用を促進できるような会社や業界でもないし、新しい産業を創出することもできないけど、芸人の子はたくさんいるやろ。『君はどこ出身や?』『秋田県です』『家にまだ勉強部屋はあるんか? じゃあ明日からそこが吉本興業秋田事務所やな』というノリで芸人を集めるのはどうや?」「地元にいる子を集めて契約社員として雇うのは?」と聞くと、「いいですねえ!」って。それから話を進めていって、1月4日にはWebサイトで募集を出して。「今すぐに故郷に帰りたい人はいますか?」「都会を出て、地方に行きたい子はいますか?」とかを聞いて手を挙げてもらって、それから始まったんですよ。ただ、最低限やけども、給料を払わないといけないでしょ。人件費と管理費で2億ちょっとかかったけど、スタートしたら、収支が黒とは言わないけど、ほぼほぼトントンにはなった。それからはどこの放送局でも、総務省でも、「あのプロジェクトは良いですね。本当は、僕たちがやらないといけないんですけどね」と言われるようになったんです。あまりにも評判が良いから、「今度は『アジア住みます芸人』はどうかな?」とまたメンバーを集めて。そういうのを十何年くらいかけて続けていたら、成果が出てきた感じですね。


増井:その流れで、2022年に“BSよしもと”というテレビ局を開局させました。


大﨑:総務省がBSの放送局を公募していて、どうしようかと考えていたんです。BSとはいえ吉本興業がテレビ局を持つことになるわけで。地上波に70〜80年近くお世話になってきているし、「それやったら吉本のタレントを使わなくてもいいんちゃうか」と言われて芸人に迷惑をかけてもアカンでしょ。だからやめておこうかとも思ったんですけど、「こんな話があるのもなんかの縁やし、やらないで後悔するのもなあ……とりあえず手を挙げておこうか」と。そうしたら、審査が通ったんです。『住みます芸人』はテレビに出られてない子ばかりやったから、その子らをテレビに出したり、テレビからお声がかからないような芸人も出していったら、ほかのテレビ局さんからも恨まれないし、うちにとってもプラス……と。さらに、視聴率で勝った負けたとなるのも嫌やし、広告代理店と組んでスポンサーを集めてもそんなに取れないやろうから、「コマーシャル入れなくていいんちゃう?」と。

住みます芸人たちが、これまで地元では捨てられていた深海魚をもらってきて、それを粉にして、ふりかけを作って、箱詰めして、ブランディングして売って……みたいな事例がたくさんあったから、「そういうのをBSよしもとで事業化して、地元のラーメン屋の兄ちゃんに10万円出してもらうとか、地方銀行さんに100万円出してもらうとかで事業を進めながら利益を出して、その利益を再投資して……そうしたらコマーシャル要らんやん」というような話をして。だから思いついたことを結びつけていったという感じで、本当に戦術はないんですよ。


増井:最後に、会長が「新しい場を作ろう」と位置付けられているのが『2025年日本国際博覧会(大阪・関西万博)』だと思うんです。お話しできる範囲で聞かせてください。


大﨑:地盤沈下の激しい大阪ですけど、今度の万博は、もう一度その場所から世界に発信できるチャンスですよね。吉本パビリオンは、“世界の子供たちを笑いで繋ぐ”というコンセプトで。ここでいう“笑い”は、いわゆるエッジの効いたコントとかではなくて、“笑い声”“笑顔”のようなものをイメージしています。もしこの万博で、ロシアの10歳の女の子とテキサスの10歳の男の子がメタバース上で出会うことがあったら、言葉も通じない中で、お互いがどんなふうにして向き合って、どんな話をするのか。頬を赤くして2人とも下を向いているだけなのか。いつの時代も、戦争や紛争はなくならないというのはわかりました。でも10歳のときに一瞬でもそういう経験をしておけば、戦争はなくならないかもしれないけど、違う歩み寄り方や、解決の仕方を見つけられるかもしれない。ほんの数パーセントかもしれないけど、万博ではそんなことを表現できたらなと思っています。


増井:『居場所。』を読んで、さらにこうしてお話を伺って、会長はこれまでもこれからも“みんなの居場所作り中”なんだなと感じました。今後もご活躍を期待しています。


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