Billboard JAPAN


FMfanのアーカイヴであの時代にタイムスリップ!タイムマシーン特集

ポップスからクラシックまで幅広いジャンルを網羅した音楽情報とオーディオ関連の記事で人気を誇ったFM情報誌「FM fan」のアーカイヴを一挙公開。伝説のライヴリポートや秘蔵インタビューなど、ここでしか見ることのできない貴重なコンテンツ満載!

TOPICS - 1987※当記事の著作権は全て株式会社共同通信社に帰属します。

RUN D.M.C. in TOKYO

欲求不満のダムは解き放たれた!/伊丹由宇
No.2

RUN D.M.C. in TOKYO
Photo: Getty Images

 澄み切った冬空である。星ひとつキラリ。

俳句をひねりつつNHKホールに入ると・・・…

 そこは巨大なディスコと化していた。なんたる熱気。これまで見たどのコンサートとも異なる種類の盛り上がりが、開演前から匂ってくる。ムムッ、油断できんぞとオジサンは気を引き締めるのであった。アディダス・ファッションしっかり用意組も少なくない。最前列に近い席に陣取る。周りは、ソウル・シスターズ&ブラザーズばかり。背はオレとそう違わないのに、ケツの位置だけやけに高い。おじさんグヤジー。このくやしさを分け合ってくれそうな同年配の人を探すのだが、視線はむなしく空を切るのであった。

 斜め前に秘書タイプのしとやかそうな女性を見つけ、ウンこの人が来てるくらいだから、オレもいて構わないだろう。お願いだからいさせて、ディスコ・キッズ難民にあいさつを送る。ボクだって昔は“ジュクのユウちゃん”と呼ばれて、東京中のディスコで踊ってたんだから、ホントなんだからン。ところが……前座のフーディーニのステージが始まったとたん、秘書タイプまでが踊り始めたのである。しかもナウイ……(オレの知ってる10年前の踊りとチガウ…ショボン)となりのソウル・シスターのやかましいこと。しっかりメゲたオレだったが、フーディーニはAh!という間にオレのフィーリングを吸い込んでしまった。特にスクラッチャーの魔術にはビックラこいた。ディスコでの2台のターンテーブルを扱ったことのあるオレ様だ。技術の高さは、すぐに理解できた。まったく油断ならん連中だ。
 ランD.M.C.が登場するに至り、新興宗教もブッ飛ぶ盛り上がり。ジェームズ・ブラウンも腰を抜かすくらい、もったいぶって、悠長にステージに現れる。R&Bのノリである。フーディーニがライト級なら、ランD.M.C.は、ヘビー級である。そうやって見ると、一方はラリー・ホームズに、もう一方は、ジョー・フレイザーに似ておる。カシアス・クレイがムハマド・アリに改名したのは、いつの事だったか。

 東京のランD.M.C.グッズが全部売り切れたという人気だが、出てきたとたん、ヒモなしのアディダス・シューズを高く掲げる。観客もみんなシューズを脱いで高く掲げ、それにこたえるのだが、一人だけ黒いオジサン革靴を掲げているのを、オレは見逃さなかった。肝の太い奴だ、とオレは思った。

 強烈なビート(なんせ真ン前なもんで)に身をゆだねつつ、オレはラップとスクラッチの発生、そしてこれほどの大流行の理由について考えをめぐらせていた。ラップの人気は、R&Bの全盛期と似た主張を持っている。70年代から続いている甘いソウル・バラードに飽き足らない若者が、“主張を主張する”ある種のメッセージ・ダンス・ミュージックを渇望していたに違いない。荒々しく、粗々しく、ナマの感情を叩きつける音楽。言葉のマシンガン。それを果たすにはすでにメロディは、カッタルイ。必要なのは、強力なリズム、ビートだけである。そして、ダンス!ダンスには、常に主張がある。サラリーマンがネクタイして、ディスコに行くのとは違うんである。ダンスは、主張であり、ダンスは生き方である。

 ランD.M.C.というスターが登場することによって、欲求不満のダムが解き放された。眼の前の熱い渦は、その奔流である。ランDM.C..は、このブームについて、実によく“知って”いるように思えた。リズムだけでは、どうしても長時間のコンサートがだれる。そこで、エアロスミスの「ウォーク・ディス・ウェイ」。

 結局のところ、ラップの生命は、韻を踏み言葉をスタッカートするのに適した英語の独自性、そして、ケツの位置の高さである。リズム、ビートは、黒人にだけ与えられた神の祝福であるように思えた。

 結局のところ、立ち放しで腹が減った。今夜は、ソウル・フードできめるか。そうも思ったが、結局のところ、オレが食ったのは熊本ラーメンだった。

(共同)

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Bon Jovi × Cinderella

全米No.1とNo.3の豪華ツアー/清重宗久
No.5

Bon Jovi × CinderellaPhoto: Getty Images

デイヴ・リー・ロスとのツアーでいかに実力をつけたかがハッキリ分かる
 昨年、デイヴ・リー・ロスのオープニング・アクトを務め、すっかり実力とキャリアを身につけたシンデレラ。年が明け、今度は、同じイーストコーストのグループ、ボン・ジョヴィのオープニング・アクトとして元気いっぱいのツアーを続けている。 ボン・ジョヴィが全米アルバム・チャートNo.1に輝いたグループならシンデレラも第3位と、これほど豪華な組み合わせはめったにないだろう。
 1月21日、ロスの南にある美しい港町コング・ピーチのスポーツ・アリーナ。ここが、ボン・ジョヴィとシンデレラが、ロスのファンの前にたった一度だけ姿を見せる場所だ。フリーウェイの出口は、1キロも手前からこのアリーナに向かう車で大渋滞となっている。
 今更ながら、全米チャート1位になることのパワーを見せつけられる光景だ。観客は7対3の割合で女性ファンが多い。いくら温かいロスとはいえ夜はかなり冷え込むというのに、ミニ・スカート、タンクトップ、Tシャツといった真夏のファッションに身を包み、続々とコンサート会場に向かっている。さあ、1万7000人収容の楕円型の会場は、シンデレラの登場を待つばかりになった。
 ライトが消え、いよいよシンデレラが登場!観客は、全員イスの上に乗り両手を高く上げて彼らを迎える。オープニング・アクトのオープニングからこんな大騒ぎになるのは、初めての経験だ。
 シンデレラのメンバーたちは、当然のようにそれを受けとめ、堂々と演奏している。昨年8月、サンタモニカ・シビック・オーディトリアムで、ラウドネス、ポイズンとステージを務めた時には、あまり印象に残るグループではなかった。デイヴ・リー・ロスとの4ヶ月間にわたるツアーで、いかに実力をつけたのかがはっきり分かる。以前は、良く言えばエアロスミスの再来、つまり、エアロスミスのコピー・バンドといった存在だったが、今や、完全にひとつのバンドとしての個性を作り上げている。コンサートのほぼ中間で聴かせるブルースでは、彼らの新たな一面をも見せている。中身のタップリつまった40分間の演奏を終え、この日のメイン・アクト、ボン・ジョヴィにバトン・タッチ。

“ルックスがいいだけじゃプラチナ・ディスクはとれないよ”
 30分のインターミッション後、いよいよボン・ジョヴィの登場だ。スモークのたち込める中「レイズ・ユア・ハンド」でスタートだ。まさに100m競争のスタートを思わせるような素晴らしい出足だ。いままでは、ルックスに助けられているグループといった印象をいなめなかったが、アメリカン・ロック・バンドの頂点に立ったぞ!!という自覚からくる余裕すら感じられる。メンバーのだれもが地に足のついた演奏をし、それが聴く者に気持ちのよいアンサンブルとなって伝わってくる。「トーキョー・ロード」のイントロでは、ここでもシンセサイザーで奏でるコトの音とあやしげな日本語(失礼)で「さくら、さくら」を披露、まだまだ日本のファンに対する彼らの思いを表現していた。つまらぬ愛国心を持つわけではないが、この時、この場所で聴いただけに感激させられた。
 現在のヒット曲「禁じられた愛」「リビン・オン・ア・プレイヤー」をコンサートの中盤でサラリと演奏。リード・ボーカルのジョン・ボン・ジョヴィは大ハリキリで「後ろの連中のノリが足りないな」といい、天井から吊るされたロープにブラさがり、アリーナ中央の特設ステージへ、観客の頭上を越えて移動するというサービスぶり。彼らのショー構成、特に、ジョンはかなりデイヴ・リー・ロスを意識しているようだ。コンサートの中で聴かせるシャベリでも、デイヴ・リー・ロスと同様に、女性について延々と語り、ファンからヤンヤの喝采を浴びていた。ジョンとデイヴの違いは、いかにもカリフォルニア育ちらしいデイヴの「女だ女だ!!」というのとは異なり、ジョンの方は、一人の女性にスポットを当て、なかなか泣かせる話を聞かせてくれる点だ。
 ボン・ジョヴィといい、シンデレラといい、ステージが大好きで、ギグを重ね短い間にメキメキ腕を上げてきたグループ。これからどれだけ大きくなるかほんとうに楽しみだ。「ルックスがいいだけじゃ、プラチナ・ディスクはとれないよ」と言っていたジョンの言葉を裏づけるステージだった。
 「夜明けのランナウェイ」の熱演と、それに続く2曲のアンコールで、コンパクトにまとまった1時間半、13曲のコンサートの中に、彼らのすべてを出し切って終わった。コンサート途中、失神して運び出される女の子も数多く見かけた。
 話によれば、シンデレラもボン・ジョヴィも日本でのコンサートを楽しみにしている様子。彼らのファンの方、さらにパワーアップした演奏に圧倒されないよう、今から体力をつけておいていただきたい。

(清重宗久)

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ランDMCとビースティ・ボーイズが一緒にツアー

 
No.13

 ランDMCとビースティ・ボーイズのジョイント・ツアーは、厳重な安全対策のもと、いよいよ開始される。ラップの2大グループの共演とあって、暴動、死傷者などを出しては一大事と、プロモーターも安全対策については慎重。結局このツアーでは通常の席に加え50万ドル(7,500万円)を費やし、警備員を増員するほか、金属探知器や柵などが取りつけられる。

(共同)

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鮎川誠 リアルNYロック・ルポ

Eleven Days in NY City
No.15

●TELEPHONE IS RING RlNG
ベルがリンリンと鳴って
「ちょっとニューヨークへ遊びに行きませんか?」
 電話の主は、伊丹プロデューサー。唐突。
「いいね」
 二つ返事はしたものの、頭の中が渦巻いた。
シーナ&ロケットは、レコーディング中だった。わがロケットダクションとビクター・レコードでスケジュールを調整し、準備にかかったのが渡米2週間前。パスポートが切れていて、発行が離日3日前、土日が入ってビザの受け渡しが、離陸3時間前(!!)
 最悪がー歩手前まで歩いてくる強行スケジュールを見事クリア、ぼくと伊丹氏、本誌記者M①号の3人は、UA800ニューヨーク直行便、機上の人となった。ゴールデン・ウィークの大混雑で、機内は満席。3人の席はバラバラ、おまけに禁煙席。アメリカ人と台湾人のおじさんにはさまれたぼくは、寝るに寝られずトイレの横で立って煙草ばかり吸っていた。

●KOOL IS THE RULE
 7、8時間もたって、ようやく寝入ると横のアメリカ人のおじさんが、ぼくをつっつく。
「LOOK!」
 果てしもない雪の大陸。アラスカ?真白い世界が、まぶしく光っている。
「It's Beautiful!」
 おじさんに発した初めての英語。また眠りに落ちる。おじさんが、ぼくをつついて
「LOOK!」
緑の大地と大きな湖。眠る。おじさん、またつつく。今度は窓際の席を代わってやると言う。
「ワシ、いつも見とるけん」
 みたいなことを言う。見下ろすと、トンデモナイものが見えた。アメリカのだだっ広い大地に異様な黒いカタマリが、ニョキッ!と生えている。摩天楼、背筋がゾクッとした。
 マンハッタン島。クールなぼくのハート(?)を、とてつもない期待と興奮が襲った。待て!
KOOL IS THE RULE ―それを確かめるために、ぼくは来たのだ。

●MAY I SMOKE?
小一時間、税関で並びそこを抜けると、ぼくらの荷物は無雑作に通路の傍らに放ったらかし。なんてドライで無用心なんだろう。これじゃ荷物引換証なんて最初からいらねえや。
 タクシー乗り場がまた荒っぽい。ドンガラ、バッタン、キキーのギャー。
「リムジンで街まで40$でどうだい」
 白タクのドライバーがつきまとう。NY慣れしたM①号が、あれはみんなでじゃなく1人40$で、空席が埋まるまで出発しないし、とんでもない所で降ろされるぜ、とささやく。
ぼくたちの乗ったイエロー・キャブのドライバーは、シリア人だった。
「MAY I SMOKE?」
 と尋ねると「シガレットならいいよ」。軽いジョークで答え、途中の観光案内をしてくれる。ホテルに到着したのは、午後8時。空はまだたっぷり明るい。FMラジオのチューナーを回すと、入るわ入るわ、ありとあらゆる音楽が流れてくる。こいつはイカスぜ。
  街をブラつくと、ゆっくりとNYが、ぼくの身体の中に入って来た。馬に乗った警官。ポルノ・ショップのソウル・ブラザー。CLOSEしたギター・ショップのウインドーにしばし立ち止まる。安酒場で、遅い夕食。
 伊丹氏がローストピーフを注文すると、メキシカンのコックが大きな塊をスライサーにかける。と、ところが、あれ!いつまで切ってるの?一人分だぜ。まだカンナかけてやがる。5人分かと思われるところで、ようやくストップ。ぼくのスモークド・ターキーも日本の感覚では5人前。山盛りのチリ・ビーンズと野菜がついて$4.98!
 店の中を見回すと、プエルトリカン、イタリア系、おや、鉛筆で線を引きながら漢字の本を読んでる中国人もいるぞ。来る前は、ぼくの興味は音楽だけにしかなかった。ぼくのROCKの歴史を再体験し、未来を見るのだ、と。しかし、アメリカ人の概念が修正され、あの人もこの人も、黒い猫までがNYの住人なんだ、アメリカ人なんだ、そう思った瞬間、ぼくのもう一つの旅がスタートした。

●LOOKIN' FOR ROCK & KICK
 ぼくたちは、まず地図を見て街の名前を覚え“ビレッジ・ボイス”などを買い込んでライブ・スケジュールをチェックした。
 「おっ、これを見よう。いや、これも行きたい……そうだ、みんな見ればいい!」
 ロックを、キックを求めて、毎夜で歩くぼくのナイト・ライフが始まった。
 今は亡きバディ・ホリーとともにR&Rの誕生に立ち合ったザ・クリケッツを「ローンスター・カフェ」で見る。温泉帰りみたいなアロハ・シャツを着て、柳腰の力の抜けた思い切りすてきなR&R。ポール・マッカートニーのプロデュースした新曲も披露してくれた。彼らを“悟りのロック”と名づける。
 「ボトム・ライン」では、バクスター・ポイントデクスターを見る。だれあろう元ニューヨーク・ドールズのデヴィッド・ヨハンセンその人の変名である。つい最近、ルー・リードの「ボトム・ライン」ライブのビデオを見直したばかりだ。バンド・サウンドは超一流。彼は、昔とはすっかり変わっていた。でも、素晴らしいショーだ。(ヨハンセン氏とはその後何回も会い、NYシーンの若き顔役であることを知った)。
 BAD(ビッグ・オーディオ・ダイナマイト)を見たのは、「アービング・プラザ」だ。ミック・ジョーンズは、クラッシュ時代に東京で話をしたことがあるが、彼も昔の彼ではなかった。昔は機嫌が悪くて、ヤケッパチだったけれど、現在はいつもニコニコして、身も心も屈託がない。3日連続でパーティに出かけ、ミックともすっかり親しくなったし、映画スターのマット・ディロン、映画監督のジム・ジャームッシュ、プラズマティックス、元クラッシュのポール・シムノンなど数えきれないほどのスターに紹介された。こうした夜が永遠に続くかに思われた。

●BIG APPLE UNDERGROUND
NYについて4日目。ぼくらはロックを求めてグリニッジ・ビレッジの一角にあるホテルに移った。値段は前のホテルの1/3、でも、快適だった。サラリーマン風の人は、ほとんど見かけない芸術的な街。ここで出会う人たちは、面構えも服装も“自分は人とは違う”(I'm Not Like Everybody Else/The Kinks)という信号をやわらかく発している。
 その夜、すべてが変わった。親友の、そして偉大なるロックの使者、カメラマンのボブ・グルーエンと再会したのだ。ハドソン川を眼前に臨む彼のアパートメントに招待され、近くのニューオーリンズ料理の店に行く。お客がフロアにあふれ、でもだれもがニコニコとして一時間も席が空くのを待つ。ぼくらもマルガリータを立って飲みながら、ニコニコして待った。
 食事(アリゲーター!)が終わると、ボブが「今夜、ヨットでディスコ・パーティがあるから行こうか」
 と言う。モチロン!
車でヨットを探すが、もう出航してしまった後らしかった。しかし、それがリアルNYを体験する発端となったのだから、何が幸いするか分からない。ボブの運転で、クラブ巡りが始まった(それは、NYを離れる朝までエンエンと続くことになったのだが・・・)。
 エキゾチックな「S.O.B.(サウンド・オブ・ブラジル)」。パンクスゲケイがたむろする「ピラミッド・クラブ」。ブルースのライブ・ハウス「トランプス」。「アービング・プラザ」のパーティによって、教会を改造したファンタスティックなディスコ「ライムライト」。地下鉄の駅をそっくりそのままディスコにした「トンネル」。音のシャワーが降り注ぎ、そのディスコの奥に壁はなく、どこまで続くのか、NYの心臓に向かうように2本のレールが深い闇の中に消えていた。
 観光客みたいにテレーッとNYを見たくない―ぼくはそう思い続けていた。パンフレットでみるNYなんて!日本の情報誌に載っているNYなんか見たくない。
 その夜、ぼくの身体からプッツンと音がして何かが切れた。ひきずり込まれるように、ぼくはNYに溶け込んでいった。生粋のニューヨーカー、ボブ・グルーエンは、一夜にしてぼくをインスタント・ニューヨーカーに仕立て上げた。ありがとう、ボブ!日本人より日本人らしい熱い心を持った男。リアルなNYが、手の届く所にまで近づいて来た気がしていた。ぼくは強烈にエキサイトした。
 あくる日は、ぼくの誕生日だった。深夜、一人のロッカーに会った。ぼくの胸の中で、ぼくをロックへと導き続けてくれた男―ミック・ジャガー。

●IT'S NEW YORK STYLE
 その夜「トランプス」を訪れたのは、偶然の積み重ねだった。前夜、フラッと寄ったその店に、えらく気のいいお姉ちゃんがいた。日本人の僕たちにえらく興味を示して、親切にいろんなことを教えてくれ、常連客を紹介してくれたのだ。
その中に、ローリング・ストーンズの黎明期のプロデューサー、ジョルジオ・ゴメルスキーがいた。太っ腹の考え方のハッキリした初老の気持ちの良い人(普通の人から見たら、変人かもしれないが)。彼いわく、
「俺は、アンダーグラウンドにしか興味がない!」(ほかには酒だけ?)
 姐ちゃん(ジュディという名前だった)は、えらくブルースに詳しく、
「明日は、ロウエル・ファルソンが出るから絶対来なきゃダメよ。そうね、夜の12時にここへ来なさい」
 そして、5月2日。みんなが、ビーフステーキとワインで誕生日を祝ってくれた。「トランプス」に行くと、たった一つだけ席が空いていて、その席がまた幸運につながる。ロウエルは、5年前にも六本木の「ピット・イン」で会ったことがあるが、あの時より若いや。
 シャープな切れ味、文句なし、大満足。
 ちょっとトイレに立って席に戻ると―すぐ後ろの席にミック・ジャガーが座っていた。
 僕は、一瞬にして浮き足立った。何とも訳が分からず、ソワソワドキドキ、やたらうれしくなった。表向きはクールをよそおって、ステージを見ていても、気が気ではない。多くの客もミックに気づいているはずだけど、サインをせびるわけでも無く、彼をそっとしておいてあげている。クールなニューヨーク。
 僕もインスタント・ニューヨーカー(?)として(本当は腰にしがみつきたいくらいだったが)気付かれないようにニコニコして…。
 ストーンズを聴き狂った20年間が、走馬燈のように、頭の中をグルグルと回った。ミックは、自然に振る舞っていた。驕った態度なんか、これっぽっちもなく、ブルースの先輩のステージに見入っていた。美しかったし、若かった。
 小さなクラブに同じ時間にいる(それもすぐそばに!)。それだけで僕はこの上なくハッピーな気分。おまけに誕生日ときている。親友ボブの撮ってくれたミックとのスナップが、最高のバースデイ・プレゼントとなった。

●SO…WE'RE HAD A LOT OF FUN
一人で朝食を食べる度に、僕はニューヨークに溶け込んでいった。行きたい場所、行きたい店が多すぎて、1日中歩き回っていた。食べること、そして歩くことこそが、その街を知る最良の方法だと知った。僕たち3人は、やがて別行動で動くようになった。一人歩きの喜びも知った。
 ホテルに帰り着くのは、毎日朝方の4~5時、睡眠時間もとれないほどの忙しさだったが、僕はますます元気になっていった。
 パンク・ロックを生んだ「CGCB」に行った。チェルシーでは、夜の女王たち、ナイト・バタフライにも出会った。金色のブーツに股の切れ込んだ下着1枚で、僕に近づいてきた「あんた、私が怖いの?(笑)」ホームレス・ピープルも見た。「ケニーズ・キャスタウェイ」でビールを飲んだ。「リッツ」の7周年パーティに行き、「ハード・ロック・カフェ」「キャット・クラブ」「ミルク・バー」(看板さえ出ていない深夜バー)にも行った。ハーレムに行き「アポロ劇場Jを見て、ダコタ・ハウス、セントラルパークのストロベリー・フィールドで、ジョン・レノンを偲んだ。マジソン・スクエア・ガーデンでは、ヒューイ・ルイスを、シューベルト・シアターでは、スザンヌ・ヴェガを見た。
 でも、僕の心に深く残ったのは、出会った人々、そしてニューヨークの街そのものだ。
TVでは飽きるほどNYを見たと思っていたけれど、自分の身長より何百倍も高く、何百倍も長いビルディングが、はるか向こうまで、つながっている―その下に立つと、異常なほどの感動を覚えた。ある時代、世界中の巨万の富が、この小さな島に集まっていたのだ……。僕はNYについて、知っていると思っていた。ところが、何一つ知ってはいなかったのだ。

●Eleven Days in NY City
 泣き出したい気持ちだった。数時間後、NYを発たねばならない。もう1週間か? いい年こいて、遊園地から帰りたくないと親にダダをこねる子供みたいな気持ちに襲われていた。どういうことだ?一体、NYって何なのだ?
 歩いた街、出会った人々が、頭の中で、フラッシュ・バックする。胸をしめつけるような、名残惜しさが、もの悲しさに変わる。
 でも……たっぷり楽しんだ。

(鮎川誠)

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チャートに見るアイドル戦国史

伊丹由宇 VS 東ひさゆき
No.21

チャートに見るアイドル戦国史Photo: Getty Images

 いよいよニュー・アルバム『BAD』が発売間近のマイケル・ジャクソンは、デビュー以来、歌手生活18年の大ベテラン。69年にジャクソン・ファイブとしてデビューしたのがわずか11歳の時である。前作『スリラー』から最新作まで5年間の空白があるにしても、アイドル・グループとしてスタートしたアーティストとして、この息の長さは驚異的なもの。最終回は今昔のアイドル・グループのヒット曲を比較してみました。

<だいたいがアイドルって何なのよ!?>
M①号:まずはアイドルの定義から入らないとイケナイのですが―
東:ムズカシイよね。でもこのチャートに入っている人は、ほとんどが10代でデビューしている。
伊丹:アイドルは時代とのかかわりが一番重要なわけで、エルヴィスだって、ビートルズだって、その時代においてはアイドルだった。
ここでとり上げるのは、もっと狭義のアイドルだね。音楽のほかに異性としてのあこがれと性意識が隠されているのがアイドル。
東:音楽以外にプラス・アルファを持っている人。ルックスを含めたキャラクター人気。
伊丹:雑誌やTV、映画が欠かせない要素だね。必ず“作られた”部分を持っていて、それが見透されるとガタッとくる。素顔のない人たち。おニャン子なんかも素顔のようでいて、素人アイドルを“演じる”ことが人気の要因だった。
 とりあえず、作られたアイドル・グループの第1号がモンキーズだというところから始めようか。
東:TVシリーズとレコード・デビューが決まっていて、それで、4人をオーディションしたんだからね。グループができた時、4人は初対面だった。アメリカ版のビートルズを作ろうとしたわけだよね。
伊丹:最初は演奏も全然やってない。強力なソングライターが付いたのも大きかった。日本でのアイドルというイメージに一番近いね。時代的にいうと、日本のGSブームと重なる。
東:パートリッジ・ファミリーも形は違うけど、TVから人気が出てバンドを作った。アニメでは、アーチーズっていう実体のないグループもあったね。
伊丹:パートリッジからは、デヴィッド・キャシディが出た。こうやって活動期間を見ると、みんな短いね。アイドルの宿命というか……。モンキーズだって全盛は、ほんの2~3年だった。その後再結成したりして、去年もちょっとしたブームが起こったけビ。モンキーズにしても、べイ.シティ・ローラーズにしても、ちょこっと再結成するとこがGSそっくりだね。
M①号:アイドルって、同時期に二つ出てくるのが特徴じゃないでしょうか。オズモンズとジャクソン・ファイブ、パートリッジとカーペンターズ、ショーン・キャシディとレイフ・ギャレット……ほとんど同時期ですね。
伊丹:ダニー・オズモンドのヒット曲が多いのに驚くね。
東:グループと並行してやってるし、マリー・オズモンドとのデュエットも入ってるから。カバー・ヒットが、男性歌手では一番多いはず。
伊丹:日本では弟のジミーが人気あったね。“カルピス”のコマーシャルとか、アイドルというより子役だったけど。それがマイケル・ジャクソンと友達になるあたり、なんとなくワカルなあ。

<栄光のジャクソン・ファミリー>
東:アイドル・グループとしては、最も大きな成功を収めたのがジャクソン・ファイブで、活動期間も長いし、コンスタントにヒットを放っている。
伊丹:デビュー時は、まだマイケルは子供で、天才少年という感じだったね。いきなり4曲連続No.1で―。
東:オズモンズは、現在はカントリーを演ってるけどね。アイドルの宿命として、いつまでもあやつり人形でいることに嫌気がさして、自分で音楽を作りたい、プロデュースしたいということになって、それがうまくいくかいかないかで―。
伊丹:マイケルは、それに成功した数少ない例だね。
M①号:それから声変わり時期をどう乗り切るか―。
伊丹:スティーヴィー・ワンダーもそうだったね。声変わりの時期はちょっと休んだのかな。やがて自分で音楽を作ってゆく。
 じゃ、マイケルの話からいこうか。71年には、早くもソロ・ヒットを放ってるね。
東:ジャクソン・ファイブのデビューが69年だから、すごく早いね。
伊丹:最初のNo.1が、ネズミさんの映画で、「ベンのテーマ」(72年)。
東:79年のLP『オフ・ザ・ウォール』からも2枚No.1になってるんだけど、現在のファンが知ってるのは「ビリー・ジーン」(83年)以降からかなあ。ポール・マッカートニーとのデュエットを入れて6曲No.1を持ってる。
伊丹:ジャクソン・ファミリーのすごいのは、ジャーメインとマイケルだけでなく、姉妹も大活躍で、ラトーヤに続くジャネットが大爆発した。
東:マイケルの場合は、クインシー・ジョーンズと知り合ったのが一番大きいんじゃないかな。ジャクソン・ファイブが出るまで、あんな若いグループが活躍したことなかったんじゃない?ソロは別として。
伊丹:それに黒人というのが珍しい。なんたって全盛期のモータウンだから。突然ですが、ペギー・マーチのことを思い出した(笑)。
東:“スリー・ボビー”とか(笑)。
伊丹:ボビー・シャーマンも意外とヒット曲が多いね。
東:ハリス(ガム)のCMに出てたけど(笑)。
伊丹:日本でも人気あったね。横浜の歌とか歌ってたし。平山三紀と同時期か?(笑)。今のファンも知ってるのは、レイフ・ギャレットだね。
東:この人も子役出身だね。
伊丹:日本でも“ナビスコ”のCFで、人気が出て、日本に来た時は日本中一緒にまわったことあるなあ。藤谷美和子ちゃんがファンで一緒に食事したり……かわいかったけど、プッツンになっちゃったか。
東:彼もカバー・ヒットが多かった。
伊丹:忘れてならんのは、レイフの「ニューヨーク・シティ・ライツ」は、田原俊彦の「哀愁デート」の原曲なんだよね。考えてみると、たのきんって古いんだな(笑)。
東:最近の日本のアイドルって、向こうに比べて寿命が長いんだね。

<アイドルの宿命について>
伊丹:リッキー・ネルソンは、TVドラマ・シリーズが大きかったね。それからまた突然思い出したけど、アイドルという言葉が定着したのは、シルヴィ・バルタンの「アイドルを探せ」からじゃないかな。それから忘れてならんのがベイ・シティ・ローラーズ。
東:あれはスゴかったね。特に日本では爆発的だった。いまだに武道館でやったりする(笑)。
伊丹:アイドルにファッションの流行というのも重要だね。タータン・ギア。日本で本当の兄弟でアイドルになったフィンガー・ファイブも思い出深いぜよ。
東:びんから兄弟もいる(笑)。
伊丹:カルチャー・クラブは、ちょっとアイドルの概念から外れるけど、最近の一番の大物アイドルは、デュラン・デュランだね。
東:いわゆる “白馬に乗った王子様”という対象になり得るのがリック・スプリングフィールドだった。日本で、TVドラマを流してればもっと盛り上がったと思うけど。
伊丹:ちょっと年だけどね。最近は、10代ではなかなか出てこないね。
東:チャーリー・セクストンくらいか。最近ではデュラン・デュランとa~haかな。みんな昔のあやつり人形的なイメージはないね。
伊丹:この表を見ると、現在も第一線でやってる人ってほとんどいないね。舟木一夫も入ってないし(笑)。
M①号:ポール・アンカも10代の天才少年からアデランスのおじさんに“成長”しました。
伊丹:日本では“ロカビリー三羽ガラス”(笑)。考えてみると60年代の日本のアイドルって、みんな13~4歳だったでしょ。現在の方が年齢上がってるね。南野陽子だって20歳でしょ。最近のグループでアイドルに近いのは、ジェッツかな。
東:ニュー・エディションとか……。
伊丹:アメリカじゃイマイチだったけど、メヌードは代表的アイドルだね。
東:16歳以上はメンバーになれないっていう―。マイケル・J・フォックスって、アメリカのアイドルなのかな。
伊丹:こうやって見てくると、現在はアイドル不在に近いね。それに比べて日本のチャートの90%以上アイドルというのは異常に感じられる(以下、マイケルとプリンスの比較論で異常に盛り上がり、異常に終わった大雷雨の午後であった)。

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新作の魅力は多様性だね ジョージ・マイケル

アルバムの中で好きな曲は「ワン・モア・トライ」
No.25

新作の魅力は多様性だね ジョージ・マイケルPhoto: Getty Images

 初ソロ・アルバム『フェイス』が日本でも11月21日にリリースされたジョージ・マイケル。「丸1年かけてレコーディングしてるうちに、どんなアルバムにするかを、ずいぶん悩んだから、最後はあえて成り行きに任せた。今回のアルバムの魅力は多様性にあると思う」と最新インタビューに答えている。

 「アルバムの中で好きな曲は「ワン・モア・トライ」。アンドリュー?彼はモナコにいるからしょっ中は会えないけど、でも会えば仲良くやってるよ。彼はレコーディング中で、聴かせてもらったけど、とてもいいね」

 ジョージは来年1月から8ヶ月間をソロ・ツアーに当てる予定で、現在はニューヨークでバック・バンド用のミュージシャンを物色中。7、8人のバンドとなりそう。シングル「フェイス」のビデオ撮りは、本物の葬式の最中に行われたもので、教会の墓場でのシーンも盛り込まれている。「アイ・ウォント・ユア・セックス」同様、話題となること必至だ。

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