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<インタビュー>“たくおん”こと石井琢磨が華麗な技巧で奏でるシューマン楽曲集 手探りで見つけた答えとは

インタビューバナー

Text & Interview: 黒田隆憲
Photos: 辰巳隆二

 国内外で活躍するピアニスト・石井琢磨が、ロベルト・シューマンの名曲を集めたアルバム『シューマン・ザ・ベスト』を8月27日にリリースする。ベルリン交響楽団と共演したピアノ協奏曲は、ハンスイェルク・シェレンベルガーの指揮のもと、満員の観客が詰めかけた東京・サントリーホールでライブ収録されたものだ。カップリングには、【グラミー賞】を2度受賞した名録音技師フィリップ・ネーデルをプロデューサーに迎え、ベルリンのスタジオb-sharpで丹念に録音された「トロイメライ」や「献呈」などのピアノ小品が収められている。

 華麗な技巧と繊細な表現力をあわせ持つ石井の演奏は、シューマンが音に託した愛と優しさを鮮やかに描出。そんな彼に、アルバム制作の舞台裏から、YouTubeチャンネル『TAKU-音 TV たくおん』を通じたクラシックの魅力発信、そして開催中のリサイタル・ツアー【石井琢磨 ピアノリサイタルツアー 2025 たくおん 5th ANNIVERSARY】への意気込みまで、たっぷりと語ってもらった。

──前作『Diversity』(2024)は、タイトル通り古今東西さまざまなジャンルの楽曲を取り上げたアルバムでしたが、今回は一転してシューマンに焦点を当てた内容になっています。どのような経緯で、このアルバムが生まれたのでしょうか?

石井琢磨:ちょうど昨年の今ごろ、ベルリン交響楽団から「ベルリン・フィルハーモニーの定期演奏会でソリストを務めませんか?」という特大オファーをいただいたんです。もちろん即答で「やります!」とお返事して、その時点で演奏する曲はシューマンのピアノ協奏曲に決まりました。

その後、日本ツアーが決まり、いろいろな関係者が動いていく中で、ソニーさんが僕に興味を持ってくださって。実際に公演をいくつか観に来てくださった後に、「このシューマンの演奏を『ベルリン交響楽団×シェレンベルガー指揮』という形でCDにしませんか?」と正式にオファーをいただきました。そこから一気に話が動き出し、今回のアルバム制作に至ったという流れです。

──シューマンという作曲家について、石井さんはどのように捉えていますか?

石井:最初に弾いたシューマンの曲といえば、たぶん子どもの頃に弾いた「トロイメライ」だと思います。今回のアルバムにも収録していますが、一見すると「かわいらしい」とか「やさしそう」な曲に聴こえますよね。でも実は、ものすごく難しいんですよ。よく初心者の方が「この曲なら弾けそう」と思って挑戦してみるんですけど、「あれ? 全然弾けないぞ」ってなる(笑)。ピアノを少しでも触ったことがある人なら、きっと共感してもらえると思います。今は楽譜もネットで無料公開されているので、読者の方にもぜひ試しに弾いてみてほしいくらいです。驚くほど難しいですから。

──そうなのですね。

石井:シューマンのすごさって、そういうところにあると思うんですよね。一見シンプルに見えて、実はとても繊細で内面的。演奏する側の解像度や感受性がすごく試される。美しさが、音の「奥のほう」に宿っているというか。作曲家としても、シューマンはとても独特な存在だと思います。精神的な苦しみを抱えていたことで知られていて、ライン川に身を投げて自殺未遂をしたり、最期は精神病院で亡くなったりして。すごく繊細で脆い人という印象を持たれがちですし、神秘的というか謎も多い。僕自身も昔は「なんだかよくわからない人だな」と思っていました。

でも今回、このアルバムのためにしっかり向き合う中で「わからないことが正解なんだ」と、ふと腑に落ちた瞬間があったんです。人ってすぐ「答え」を探したくなってしまいますが、シューマンの音楽は、むしろ「よくわからない」という状態そのものが本質なんじゃないかと気づかされましたね。

──今回は「ベスト」ということで、いくつか小品も選ばれています。選曲にあたってはどのようなこだわりがありましたか?

石井:シューマンのピアノ協奏曲を、第1楽章ずつ1番、2番、3番と収録しているのですが、1番と3番は華やかに盛り上がって終わるんです。演奏していても気持ちが高まるし、聴いている側もグッと引き込まれる。でも、そのまま最後まで盛り上がりっぱなしで終わるのは、ちょっと落ち着かないなと感じたんですよ。たとえば4曲目にさらに勢いのある曲が続くと、聴くほうも疲れてしまう。そこでレーベル担当の方とも相談し、アルバム全体で大きな流れを作ることにしました。

たとえば「森の情景」のパートは、全8曲の中からいくつかを抜粋して弾いています。クラシックのアルバムで「抜粋」ってあまりやらないんですけど、クラシックをもっと身近に感じてもらうためのひとつの試みとして、あえて挑戦してみました。

──小品を改めて弾いてみて、どんな魅力を感じましたか?

石井:やっぱり、シューマンの持つ「かわいらしさ」ですね。ピアノ教則本にもよく収録されているような小品には、彼のチャーミングな一面がたくさん詰まっています。それに、「子供の情景」を弾いていると、妻クララ・シューマンへの深い愛情が伝わってくる。もちろん、その愛があまりにも強すぎて精神を病んでしまった側面もあるとは思います。でも、彼の音楽には温もりや優しさ、深い愛情が満ちていて、小品集の中からもそれがじんわりと伝わってくるんです。

──最後に収録されている「献呈」もクララ・シューマンに贈られた曲として知られています。

石井:結婚式の前日にクララに贈られた曲です。そして、今回のCDの1曲目も彼女に捧げられた作品なんですよ。だから僕、このアルバムには「隠れたテーマ」として、クララ・シューマンという一人の女性にフォーカスしているんです。言葉で強調しなくても、どこかで「愛を感じるな」と思ってもらえたらうれしいなと。ちょっとニッチな発想かもしれないですけど(笑)、ロマンティックな要素をさりげなく散りばめました。

──「献呈」はご自身にとっても特別な曲だそうですね。

石井:僕は22歳でウィーンに留学しました。クラシックの世界って、例えば「カンパネラ」や「別れの曲」みたいな、誰もが知っている名曲は、真面目に勉強している人ほど弾きたがらない風潮があるんですよ。僕も例にもれずそういうタイプで(笑)、できるだけ避けてきました。

あるとき、演奏会で「アンコールを弾いてほしい」と主催のおばあちゃんに頼まれ、正直ちょっと気が進まなかったのですが「じゃあ『献呈』でも弾くか」と選んでみたんです。そうしたらものすごく喜んでくれて……その瞬間、「音楽ってこういうことだよな」と素直に思えたんですよね。ずっと敬遠していたけど、やっぱり名曲ってすごいなと改めて感じさせてくれた曲でもあります。

──ご自身のターニングポイントになった曲ともいえますね。

石井:はい。あの体験をきっかけに、有名な曲もどんどん演奏していこうと思えるようになりましたし、「クラシックをもっと身近に」という、今の活動の方向性にもつながったと思っています。ちなみに「献呈」は、YouTubeにアップした演奏動画が100万回以上再生されていて。クラシックのピアノ曲としては、なかなか珍しいことだと思うんです。それだけ多くの人に愛されている曲だなと実感しますし、僕にとっても大切な思い出がたくさん詰まった1曲です。

──ベルリン交響楽団との共演はいかがでしたか?

石井:最初はドッキリかと思いましたよ。「そんな話あるわけないだろう」と(笑)。でも後から経緯を聞いたら、いろんなプロモーターの方が、僕のCDや動画を指揮者のシェレンベルガーさんに届けてくださっていたそうです。その中で、マエストロが「タクマ、いいね」と言ってくださって、「次の定期演奏会は彼でいこう」と直接オファーしてくださったと聞きました。

──それはすごい。ピアノ協奏曲「作品54」は、石井さんにとってどんな思い入れのある作品なのでしょうか?

石井:実は、協奏曲として初めて演奏したのもこの「作品54」だったんですよ。クラシックはずっと学んできたのに、なぜかシューマンのこの曲だけは手をつけていなくて。ベルリン交響楽団との共演が決まり、ようやく本格的に「出会う」ことになりました。

最初は完全に手探りでしたね。ショパンやラフマニノフならある程度「こう弾けばいい」という型が見えるんですが、シューマンにはそれが見つからなくて、練習しながらずっと「どこに答えがあるのだろう」と模索していました。でも、さっきも話したように、演奏を重ねる中で「答えがないことこそ答えだ」と腑に落ちた瞬間があったんです。シューマンは精神的にも繊細で、病にも苦しんだ作曲家。だからこそ、曖昧さや刹那的な感情が強く表れている。一年かけて準備してきても、最後までつかみきれなかった。であれば、その「わからなさ」こそが、この曲の本質だったと、ツアーの中で気づけた気がします。

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「本当に自分はとんでもない人と共演してるんだな」と実感しました

──シェレンベルガーさんとの交流で印象的だったのは?

石井:彼はもともとベルリン・フィルハーモニーにいたオーボエ奏者なので、カラヤンやアバドといったレジェンド級の指揮者たちの話をしてくれるんです。そのエピソードがいちいちすごくて(笑)。話を聞いているだけで、「本当に自分はとんでもない人と共演してるんだな」と実感しましたし、純粋に楽しかったですね。

彼がよく言っていたのが「ナチュラルでいることの大切さ」でした。演奏の現場では、仲間と自然体でいることが何より大事だよ、と。ドイツ語には敬語とタメ語があって、基本的には年上の方──特に77歳の巨匠には「Sie(ジー)」という敬称を使うのが普通なんです。

──英語でいう「Sir」のようなニュアンス?

石井:まさに。僕も最初は当然「Sie」で話していたんですが、ある時、彼が「du(ドゥー)でいいよ」って言ってくれて。つまり「“君”って呼んでいいよ」みたいなことなんです。たとえば「Wie geht es Ihnen?(ご機嫌いかがですか?)」が「Wie geht’s dir?(よう、元気?)」に変わるくらい、言葉がぐっと砕けます。そう言ってくれたことで、僕も気持ちが一気にラクになって、距離がぐっと縮まりました。もし僕がいつか「巨匠」と呼ばれるような立場になったとしたら、若い世代に対しても、彼のような自然体で優しい接し方をしたいなと思いました。

──ウィーンでの生活は、ご自身のYouTubeチャンネル『TAKU-音 TV たくおん』でも積極的に発信されています。実際に暮らしてみて、どんな楽しさや難しさがありましたか?

石井:ウィーンは……3週間限定なら、世界で最高の街だと思います(笑)。でも、それを超えるとだんだん歯車が狂い始めて、「あれ? なんか違うな」という出来事が起こってくる。そして最終的には「とんでもないこと」が起きる街だと僕は思っています(笑)。

実はさっき別のインタビューで話したんですけど、ウィーンってちょっと京都に似ているところがあるんですよ。最初の3週間くらいまでは「お客さん」として接してくれる。でも「住む」となると、その先に踏み込むのがなかなか難しい。コミュニティが閉じているというか、独特の壁があるんです。

──そうした環境に、どうやって溶け込んでいったのですか?

石井:僕はコミュニケーション力と「大きな声」が取り柄なので(笑)。「ダンケシェン!」って思いきり大声で言うんです。それって意外と大事というか、笑顔ってやっぱり心の鍵を開ける手段なんですよね。そういう経験を経たからこそ、僕の演奏もどこかフレンドリーなのかもしれないし、今回のアルバムや活動にもその姿勢は表れていると思います。

──YouTuberとしての活動も、もう5年ほどになりますね。そもそも『たくおん』を始めたきっかけは?

石井:2020年、コロナで演奏会がすべてキャンセルになってしまって。「このままじゃ、まずい」と思い、新しいことに挑戦しようとYouTubeを始めたんです。まさに「ピンチをチャンスに」という気持ちでした。最初の動画の再生回数は14回で、そのうち9回は家族(笑)。編集もカメラの前で喋るのも初めてで、すごく頑張ったのですが、ひどい出来でした。でも「誰かが見てくれてる」と思ったら、次を作る気になって。14回が31回、100回……と少しずつ増えていって、今では1億回再生を超えて動画も320本以上になりました。

クラシックって生演奏だと多くても2,000人程度にしか届けられません。でもYouTubeならもっと多くの人に届けられるし、1再生=1人と実感できるのが大きかったです。サロンコンサートで30人に向けて弾くような感覚で、大切に続けてきました。

──見てもらうために意識していることは?

石井:やっぱり「自分が楽しんでいるかどうか」ですね。それって画面越しにも伝わるんです。会話も同じで、つまらなそうに話していたら相手にも伝わりますよね。音楽もそうだし、こういうインタビューもそうです。YouTubeも、楽しい気持ちでやっていると伝染する。逆に、心がこもっていないとすぐバレてしまう。動画の面白さでもあり、怖さでもあると実感しています。


──クラシックをもっと多くの人に届けたいという思いも、YouTubeを始めた動機の一つですか?

石井:そうです。ずっと「どうすればクラシックを聴いてもらえるか」を考えていました。その中で生まれたのが「カフェピアノ」という企画。ピアノのあるカフェに突撃して演奏させてもらうんですが、「この人いきなり来て大丈夫?」と興味本位で観始めた人が、最後には「クラシックっていいですね」とコメントしてくれることもあって。そういう反応を見るたびに、「やりたかったのはこういうことだな」と思いますね。

──コンテンツのアイデアは、普段どんなふうに考えていますか?

石井:「楽しいことをしたい」という気持ちが基本です。最近では、ベルリン・フィルでのデビューに密着した動画を出したのですが、移動から本番、打ち上げまで5日間を追ったドキュメンタリーのような内容で、10万回以上再生されています。こんなに長い動画をたくさんの人が観てくれたのは驚きでした。緊張しっぱなしで、自分では暗く映っているなと感じたんですが(笑)、最後に本番を迎えて打ち上げで終わる構成にしていて、そこまで観てくださる方がいるのは本当にありがたいです。「石井琢磨」という人間そのものに興味を持ってもらえている気がしています。

──今後、シューマン以外で取り上げてみたい作曲家は?

石井:ドイツものもいいなと思っていますが、特に惹かれているのは北欧です。ノルウェーの作曲家エドヴァルド・グリーグにフォーカスしてみたい。クラシックでは北欧ってあまり注目されていない印象ですが、フィンランドに行ったときに、その独特のカルチャーにすごく魅力を感じました。ベルリンにシューマンならではの響きがあるように、グリーグには北欧ならではの響きがある。日本と通じる、職人的に何かを磨いていくような文化にも惹かれますし、ノルウェーにはぜひ行ってみたいですね。

──8月からのリサイタル・ツアーについても教えてください。

石井:今回は『TAKU-音 TV たくおん』開設5周年を記念したツアーです。これまで動画を観てくださった方はもちろん、初めての方にも楽しんでいただけるよう、プログラムやパンフレットにも工夫をしています。たとえば、YouTubeでは紹介したけれど、ステージではあまり弾いてこなかった曲も取り入れますし、パンフレットにはQRコードを載せるので、スマホで読み取れば該当動画にすぐアクセスできます。クラシックの公演では珍しい仕掛けですよね。

長く応援してくださっている方も、最近登録してくださった方も、誰もが楽しめる内容になっていると思うので、ぜひ足を運んでもらえたら、うれしいです。

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