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楽園おんがく Vol.20: ひがよしひろ インタビュー

楽園おんがく Vol.20

 旅と音楽をこよなく愛する、沖縄在住ライター 栗本 斉による連載企画。第20回は、40年ものキャリアを持つ、70年代沖縄のフォーク世代最後の大物、ひがよしひろのインタビューをお届け!

 70年代の沖縄というと、ロックのイメージが強いかもしれない。しかし、実は全国的なフォーク・ブームを受け、佐渡山豊を筆頭にフォーク・シンガーも多数登場した。そのフォーク世代最後の大物といっていいのが、ひがよしひろだ。

 70年代半ばから活動を始め、全国でライヴ活動も行っているが、これまで作品を発表することはなかった。しかし、先日満を持して初のオリジナル・アルバム『sings KOZA blues』をリリース。個性的なしゃがれ声とサウスポー・スタイルのギターを武器に、ブルースとフォークの魅力を存分に盛り込んだ力作だ。なかには、ウチナーグチ(沖縄言葉)を歌詞に取り入れたり、三線やヴァイオリンを起用するなどサウンドに変化を持たせるだけでなく、彼が生まれ育ったコザ(現在の沖縄市)の風景がリアルに描かれているのも興味深い。

 40年ものキャリアを持つベテランながら、デビュー・アルバムを発表したひがよしひろは、どのような経緯でようやく制作にこぎ着けたのか。そして、コザの街とどうか関わってきたのか。その秘密に迫ってみた。

ウチナーンチュが民謡から離れられないのは、
そういった子守唄の体験があるから

??1960年生まれですよね。生まれもコザですか。

ひがよしひろ:園田(そんだ)というエリアで、エイサーで有名な場所。だから18歳からずっとエイサーもやってたよ。

??小さい頃の音楽体験って覚えていますか。

ひがよしひろ:最初の音楽は、やっぱり民謡。沖縄はまだ復帰前で、ラジオも民謡番組が多かったんだよ。親父やお袋はまず洋楽は聴かないし、民謡以外だと美空ひばりくらい。当時の俺らの世代は、保育園なんてないからずっと家で遊んでるじゃない。だから、お昼寝の時間というのは、いつもラジオから民謡が聞こえてるわけ。ウチナーンチュが民謡から離れられないのは、そういった子守唄の体験があるからじゃないかな。

??意識して音楽を聴き始めたのは。

ひがよしひろ:うちは5人兄弟で、姉と兄が3人いてね。一番上の姉はビートルズ世代。だから小学校に入ると、60年代や70年代の洋楽を聴いてたね。小学校2年生で、ビートルズが大好きだったし。その頃には子守唄が民謡から「ヘイ・ジュード」に変わったという感じ(笑)。その後、小学校5年生のときに、2番目の姉が岡林信康のようなフォークを聴き始めたんだよ。それで俺もハマってギター弾きたいって思ったわけ。小学校6年生のときには、友人と一緒にギターをがちゃがちゃ弾いてたよ。

??じゃあ、その頃初めてギターを手にしたんですね。

ひがよしひろ:ギターを弾き始めたのは早かったと思う。同級生にもまだいなかったし。なぜかというと、兄貴がクラシック・ギター持ってたんだけど、中学を卒業してすぐ集団就職で大阪に行ったから、それが家にあるわけ。それでさわってみたんだけど、どうしようっていうくらい弾き方が全然分からない。まったくギターの知識が無いから、左利きになって。もし誰かが教えてくれていたら右で弾いてたと思うな。でも、コード進行ってどんどん複雑になってくるじゃない。それで、「そうだ、弦を逆に張ればいい」と気付いて、俺のレフティ・ギターが完成されたのよ。それが小学校6年生。同級生にはまだいなかったね。カポタストを買うお金がないから、鉛筆に針金を巻き付けてたよ。

??そのときはどういう歌を。

ひがよしひろ:小学生だと手が小さいから、Fのコードが押さえられなくてね。だからそういうコードを使わない曲を選んでた。例えば、小林亜星が作った「どこまでも行こう」なんて、指3本で押さえられるし。それは覚えているね。

??今でも小学生でギター弾ける子ってあまりいないですよね。みんな中学や高校からだと思います。

ひがよしひろ:でも、中学に入ると一気にフォーク・ブームになったんだよ。吉田拓郎や井上陽水が売れて。だから中学時代の男子クラスメイトの7割くらいはギター弾いてたんじゃないかな。

??その当時、沖縄ではギターは手に入れやすかったんですか。

ひがよしひろ:そうだね。質屋もいっぱいあったし、そこには安くていいギターがたくさん置いてあったかな。ギブソンなんかも普通に安く売ってたから。

??もうその頃には沖縄にもフォーク・シーンがあったんですよね。佐渡山豊さんとか。

ひがよしひろ:もう憧れの人だよね。中学時代は、佐渡山豊の歌をいくつコピーできるかというのがステイタス。彼の「ドゥーチュイムニイ」なんてのは長い歌だから、どれだけ歌詞を覚えてられるかが自慢話になってたくらい。弟がよく自慢してたな。

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東京の商業主義の音楽シーンには、
俺に合ってる音楽が無くなってた

??70年代には各地でフォーク村という集団が存在していましたが、「沖縄フォーク村」にも参加されたんですよね。

ひがよしひろ:俺が中学のときに、その上の高校生の先輩たちがやってるフォーク村の子分みたいな集団があって。「フォーク群衆」っていうんだけど。当時フォーク村は那覇の県庁前の広場で集まってたんだけど、佐渡山豊の弟の佐渡山猛がフォーク群衆をコザに作って、ホールでコンサートをやってたから観に行って、「俺らも入れてください」ってお願いした(笑)。その頃のフォーク村は、佐渡山豊のようにバリバリやってた人は東京に行ってるし、残ってた連中もフォーク村を抜けてイエローサブマリンっていう音楽事務所を作ったわけ。1975年にその事務所が『うりずんの島』というレコードを作ってヒットしたりして。だからフォーク村はどんどん衰退していったんだけど、逆にフォーク群衆は集まるときは70~80人くらいの規模だったから、佐渡山たけるが「俺らがフォーク村だ!」と名乗りを上げたわけ。

??その頃はすでにオリジナルを歌ってたんですか。

ひがよしひろ:フォーク村の規則に、「コピーはやらない、ステージに立って発表するのはオリジナルだけ」という決まり事があったからね。それはロックへの反発かもしれない。その頃のロックなんてカヴァーばかりだったから。

??オリジナルはいつから作り始めたんですか。

ひがよしひろ:16歳から。当時の曲は今も覚えているよ。恥ずかしくてもう歌えないけどね(笑)。

??フォーク村での活動はいつまでやってたんですか。

ひがよしひろ:20歳くらいまでかな。ちょうど1980年にフォークの大きなイベントが沖縄であってね。夕方から翌朝までやってるようなイベントで。沖縄から出たのは俺を入れて4組くらい。あとは、友部正人や加川良といった中津川のフォーク・ジャンボリーに出てたような大御所ばかり。でも、そのときはすでにフォークは下火だったからね。沖縄だったらなんとかなるだろうと思ってやったんだろうけど、客はガラガラ。そんな状況だから自然消滅。俺はフォーク村の最後の村長だったから無責任なんだけど。

??それからは全国行脚したんですよね。

ひがよしひろ:あっちこっち行ったよ。例えば、大阪に行ったらドヤ街みたいなところで安宿に泊まって、そこで日雇いやって金貯めて、またどっか行って。それで金が無くなったらまた大阪に戻ったりして、その日暮らし。少しして沖縄に戻って、アルバイトしながら歌って、また今度は東京を拠点に3年くらいドサ周り。

??全国津々浦々行ったんですか。

ひがよしひろ:そうだね。その頃には横のつながりもたくさん出来てたし、そのときには事務所にも所属してたから仕事を取ってきてくれた。あと、実はレコーディングもしたんだよ。東京のスタジオで。でも、初めて会うスタッフばかりで心細いし、技術的にも稚拙だから嫌になってね。缶詰状態で3,4日経ってから「やめた!俺はもう明日沖縄帰る!」って言って戻ったの。当然事務所から給料も出ないから、その間はパチンコで食ってたよ(笑)。「あのとき我慢してればなあ」とかよく思うけどね。

??後悔してますか。

ひがよしひろ:うーん、でもあのまま続けてたら、10年くらいで音楽をやめてたんじゃないかな。東京の商業主義の音楽シーンには、俺に合ってる音楽が無くなってたから。その頃には、完全にしゃがれ声になってたしね。

??声が変わったのはいつからですか。

ひがよしひろ:19歳とかそれくらいかな。高校生でも少しこうなってたけど、卒業してからは喉を使うようになって、酒も覚えてね。そしたらこの声が俺のオリジナルになっていった。よく「いいブルース歌いますね」っていわれるんだけど、「俺はフォークなんだけどな」って思ったり(笑)。今はもちろんブルースも歌っているけど、あえてその頃はブルースのフレーズを封印してたんだよ。

??他にフォークの人で、こういう声の人はあまりいませんからね。

ひがよしひろ:高校生の頃は、関西から上田正樹とか憂歌団を筆頭にブルースのミュージシャンがたくさん出てきて、そこに影響されたっていうのもあるね。フォークもやってたけど、こういうのも聴いてたから。もしかしたら、俺はこれかなって。今でもあの頃の関西ブルースはよく聴いているかもしれない。80年代以降のフォークって、マイナーコードで始まる優しくて未練ったらしいのが主流だったから、あえて逆を選んだというのはあるね。声を荒々しくして、人と違うぞって。東京も大阪もライヴハウスで独り立ちできないから対バンになるでしょ。フォークはみんな一緒だから「俺の個性を見せつけてやるぞ!」って思うと、自然に荒々しくなってしまうわけ。

??80年代半ばに沖縄に帰ってきたと思うんですが、それからはどうしていたんですか。

ひがよしひろ:ゆっくりやってたよ。仕事しながらだけどね。食ってけないから。

??お仕事はどうされたんですか。

ひがよしひろ:グラフィック・デザイナーをやってる。最初はイラストを描いてたんだけど、今はグラフィックデザインが主流かな。今でこそコンピュータ・グラフィックは普通だけど、俺は沖縄の中でもMacを使い始めたのはかなり早い方だと思う。

??フォークのイメージとはまた違いますね。

ひがよしひろ:そうだね。でも絵を描くのはずっと好きだったの。エイサーの集団の絵が得意でね。今でもイラストのオーダーはよく来るよ。親父なんかは「お前は絵の才能あるんだから、音楽なんかせずに絵の勉強すればいいのに」って。

??その間アルバムを作ろうとは思わなかったんですか。

ひがよしひろ:何度もチャンスはあったんだけど、最初のレコーディングの印象が強すぎてできなかったね。トラウマなのかもしれない。ライヴハウスでは普通に録音はしてたけど、いざスタジオってなるとやる気が無くなってさ。

??曲のストックはあるんですよね。

ひがよしひろ:でもね、20代は周りから「頑張れよ」って言てもらえるんだけど、30代、40代になると「お前まだ音楽やってるの?」っていう感覚じゃない。40代後半くらいからかな、ようやく友人たちも認めてくれるようになって、「ほんとにお前好きなんだな」って理解してくれて。だから、ライヴやるときに曲が定着したのも、47,8歳くらい。

??かなりマイペースですね。

ひがよしひろ:でもね、同じような環境でやってるシンガー・ソングライターが全国にいるっていうことを知ったんだよ。ライヴハウスのマスターから紹介された男がいて、大阪出身の養老彌助っていうんだけど。この人と知り合ってから、東京や大阪のミュージシャンの横のつながりがすごく広がったわけ。それで、俺みたいなことやってるミュージシャンが、全国のあちこちにいるんだと思って。それで、また旅に出るようになったの。ツテをたどって北海道行ったりして。

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    「ああ、そうだった!」ってなるでしょ
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??2009年から照屋林助さん(沖縄を代表する漫談家、歌手)を偲ぶイベント「てるりん祭」を始めていますが、きっかけはなんだったんですか。

ひがよしひろ:照屋林助の次男の林次郎が友達で、彼がアートコザっていう画廊をやって、俺のイラストを置いてくれたんだよ。もちろん商売にならなくてすぐ閉めたんだけどね。その店の軒先で、野外でライヴをやったわけ。それを、もっと本格的にやろうって話になったのかな。

??民謡界の大御所が集まるイベントですよね。

ひがよしひろ:照屋林助にみんな世話になったんだろうね。例えば、もう亡くなってしまったけど、登川誠仁先生とか。みんなギャラも一律で、ほんとに少ない金額でやってもらってね。最初の1,2回は俺も出演者だったんだけど、3回目からは、あの祭りは三線だけの祭りでいいかなって思って。ポスターのデザインはやらせてもらってるんだけどね。だから俺は、ブルース・カーニバルみたいなのを別でやりたい。その考えもあったからCDを作ろうと思ったの。

??新作『sings KOZA blues』は初めてのアルバムになるんですよね。

ひがよしひろ:実は、前にCD-Rは作ったことあるけど、ちゃんとしたのは初めて。みんなからいわれてたんだよ。「なんで作らないの」って。それでかっこよく「音楽は肌で感じるものよ」って答えたりとか(笑)。

??実際に、CDを作ろうと思ったのはどういう経緯だったんですか。

ひがよしひろ:音楽評論家の藤田正という、てるりん祭の重要スタッフがいるんだけど、彼は何年か前から我が家に泊まるようになってね。あるとき、俺は酔っぱらって、何気なく「宇崎竜童と一緒にライヴやりたい」って言ったらしいんですよ。全然覚えて無いんだけど(笑)。そしたら後日、藤田からメールが来て「宇崎さんの事務所はすごく乗り気ですよ」って。なんのことかわからなくってね(笑)。でも、もしそういうことが実現したら、俺もCD作っとかないといけないかなって。それで藤田に「CD作るよ」って言ったら、Pヴァインを紹介してくれたわけ。

??CDを作ることが決まったのはいつですか。

ひがよしひろ:今年に入ってから。だから急いで作ったよ。本当は9月くらいの発売予定だったのに、何もせずに8月になって。Pヴァインから催促が来るんだけど、俺は「順調に進んでる」って言ってた。ミュージシャンさえも決まってなかったのに(笑)。でも、8月になんとか録音はしたよ。

??8月のレコーディングまでにどういう準備をしたんですか。

ひがよしひろ:最初はデモテープをPヴァインのプロデューサーの井上厚さんに送ったんだけど、「こんなのじゃ物足りないから、もっと荒く激しくやってください」って。最初は優しい感じにしようと思ってたんだけど、その意見を聞いて曲目もメンバーも変えたの。8曲のうち、4曲は入れ替えたかな。ブルース色が強いものとか。バラードが多かったからね。

??レコーディング・メンバーの人選は。

ひがよしひろ:ギターのTARAだけは20年近く一緒にやってる仲間。ベースの白神浩三は、レコーディングするときには入れたいという気持ちがずっとあった。古い付き合いだし、コザでずっとロックやってるからね。あとは、自分が声かけやすい人かな。ふだん一緒にやってるわけではないけど、よく飲んでる連中だったり。

??じゃあ、実際知ってはいるけど、一緒に演奏するのは初めてという人も多かったんですか。

ひがよしひろ:そうそう。

??実際のレコーディングはどうでしたか。

ひがよしひろ:もうみんな笑えるほど緊張してたね(笑)。やっぱりライヴと違うし。アレンジも手探りで、レコーディングに入る前に、練習スタジオで5,6回くらい合わせたのかな。「ああしよう、こうしよう」ってアレンジして。でも、いざレコーディングに入ったら忘れてるわけよ(笑)。ギターの輿那覇蘭の音楽経験や知識には非常に助けられた。ピアノの赤嶺靖やドラムの新崎成人にも。白神浩三、高宮城徹夫、平田浩、西泊喜則、TARA、参加してくれたみんなで意見出しながらね。日が経つにつれて録音が楽しくなっていったな。ミックスをやってもらった井口進さんというエンジニアは、もともと東京の第一線でやってた人だから、プロデューサー的感覚もあって、彼の意見も大きかったね。

??冒頭の「熱帯夜」から、かなりディープな感じですね。

ひがよしひろ:これは1968年くらいのコザの風景そのまま。BCストリート(今の中央パークアベニュー)のことを歌ってる。俺は園田地区だけど、いとこがこの通り沿いに住んでたんだよ。だからよく遊びに来てて。ほんとに怪しいところだったよ。とにかくド派手な街だったからね。70年代以降はヤシの木が生えてたから、歌詞に「なんで柳の木が出てくるの」っていわれるんだけど、その頃はまだ柳だったわけ。

??今はその面影は無いですね。

ひがよしひろ:この曲を作ったのは40代になってからで、そんなに古い曲じゃない。友人らと古いコザの話になったときに、当時の風景を歌に残さんといかんなと思ってね。俺は当時、呼び込みの声が「いらっしゃい、いらっしゃい」って聞こえてたんだけど、実は歌詞にもある「Floor Show, Floor Show」って言ってたことが後からわかったんだよ。ストリップのことで、「今からショーが始まるぞ」っていう意味。そういう店もいっぱいあったから、あちこちから聞こえてきたよ。映画のセットみたいなネオンのジージー鳴る音も覚えてるな。どんどん廃れていって、そのネオンが消えていくのも見てるからね。今、コザの街をどうしようかって話になったりするんだけど、この街がいちばん儲かっていたのは結局この時代なわけ。そこに戻った方がいいのかというと、そうでもないし。

??「KOZA黄昏に吹かれ」は、がらっと変わって優しいイメージですね。

ひがよしひろ:こっちはゲート通りの風景だね。美浜(北谷町)に大きい映画館が出来るまでは、コザにも映画館があったんだよ。家族連れも多かったし。夕暮れ時のその頃の風景を歌ってる。

??ノスタルジックな気持ちを歌にしたいと思うんですか。

ひがよしひろ:うん、残したいっていうかね。思い出を掘り起こして言葉にしてるような感じはあるかも。映画館近くのバス停とか、見える風景を歌うと、知ってる人は「ああ、そうだった!」ってなるでしょ。そう思ってもらえるように表現したい。

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今はこの8曲を選べたことが大正解だったと思う

??「別れはブルースで」は、まさにブルースですね。女言葉ですし。

ひがよしひろ:これはもう単純にブルースをやっただけ。こういう感じの曲はまだあるよ。歌詞はあまりほめたもんじゃないけどね(笑)。このアルバムのなかでは、いちばん古い曲じゃないかな。20代くらいだと思う。この当時はこんな曲が多かったね。

??「月夜の願い」は異色ですね。

ひがよしひろ:これは方言で歌詞を書いたんだけど、アルバムには三線も入れたいという気持ちもあったから選んだ。男が失恋でヤケ酒飲むというだけの歌だけどね(笑)。実際、俺も女にふられて酔っぱらって、雨降ってきて身体はびしょ濡れになったときに、酔っぱらいながら「月が見てるなあ」と思ったことがあったの。そのとき作ったわけではないけど、あとから思い出して書いた。

??アルバムの中ではいちばん詩的ですね。

ひがよしひろ:まあ、方言で歌ってるというのもあるけどね。ただの酔っぱらいの戯言よ(笑)。

??三線の入った民謡っぽい曲ですけど、いわゆるブルースの曲と違和感はないですね。

ひがよしひろ:たぶん、俺の声がこうだからじゃないかな。民謡もブルースみたいなもんだし。民謡も大好きだからね。

??「女優」は。

ひがよしひろ:ある女性がモデルでね。女優の卵だった女性で、俺が20代前半でドサ周りしている頃に知り合って、ちょっとだけ経済的援助もさせてもらった(笑)。お互い夢持ってたから、結局別れたんだけど。今は結婚して普通に家庭を持ってるっていう噂は聞いたけど、おそらく本人はこんな歌になってるとは思いもしないだろうけどね。

??引きずるタイプですか(笑)。

ひがよしひろ:いやあ、そんなことないよ。逆にネタにして歌の材料にさせてもらってるていうのはあるかもね。

??この曲もヴァイオリンが入ったフォークロックになってて、独特ですね。70年代のボブ・ディランというか。

ひがよしひろ:ちょっと意識はしてるね。曲に合うだろうと思って。アレンジは結構行き当たりばったりなんだけど、この曲はヴァイオリン入れたいなって思ってた。

??「彼女はいい女」も、いわゆるブルースですね。

ひがよしひろ:よく見たらいい女だなって、単純な言葉を思い付いただけで。ブルースの歌詞って同じ言葉が続くじゃない。そんな感じかな。

??「語る想いは友からの夢」はバラードですね。

ひがよしひろ:うん、これはライヴでもよく歌うよ。作ってから、10年くらい経つかな。同級生って、いつまでも同級生じゃない。一緒に年齢重ねて。で、あるとき友人から、今まで夢を追っかけてたことをやめたっていう話を聞いたら、なんだかさびしくなったんだよ。俺だけ残されるんじないかって。だから「もっと頑張ろうよ」っていう。

??同世代に向けた応援歌ですね。

ひがよしひろ:「それぞれの家族背負い」っていう歌詞があるんだけど、好きなことがあってもあきらめなきゃいけない、家族があるから冒険はできないっていうときもあるでしょ。考え方がどうしても保守的になる。それでも、やっぱり頑張ろうよって。俺自身に言ってる応援歌かもしれないけどね。

??しっとりした「ヨンナァ」を最後に持ってきたという理由は。

ひがよしひろ:これは嫁さんに感謝してる歌。本人には「お前の歌だよ」とは言ったことはないけど、感謝してる気持ちを込めた。レコーディングが終わったときに、エンジニアの井口さんが「これは俺らの世代が聴きたい歌だよな」って言ってくれたのが嬉しかったな。

??この『sings KOZA blues』は、いわゆるデビュー・アルバムですよね。ようやくできた感想は。

ひがよしひろ:「目指せ!レコード大賞新人賞」っていう感じだよ(笑)。やっぱり嬉しかったね。16歳で作り始めたオリジナルがようやくまとまったかって思うとね。20代でレコーディングを逃げ出したことも、今考えればまだ作れる時期ではなかったのかなと。あのとき録音しようと思ってた曲なんて、今一切歌ってないから。たぶん、くだらないものだったよ。今はこの8曲を選べたことが大正解だったと思う。

??今後の目標は。

ひがよしひろ:来年、上々颱風の紅龍と一緒にライヴをやるんだけど、彼らにも声かけてコザでイベントをやりたいんだよね。だからどんどんいろんな人とつながっていこうと思ってる。来年か再来年くらいには、さっき言ったコザ・ブルース・カーニバルを実現させたいね。

??コザにはブルースやってるミュージシャンは他にもいるんですか。

ひがよしひろ:けっこういるよ。ロックやってる連中は、みんなブルースが好きなんだよ。とくにギタリストは多いね。だからセッションとかやると、一緒にいろいろやるよ。あとは宇崎竜童と「沖縄ベイ・ブルース」を歌いたい。だから、俺のこともっと宣伝してよ(笑)。

??ところで、“楽園おんがく”っていうと何をイメージしますか。

ひがよしひろ:俺はラテンとか南の音楽が、実は好きなんだよね。ライ・クーダー『チキン・スキン・ミュージック』なんて、メキシコとかハワイアンもミックスされているでしょ。そういうのを意識した曲もあるんだよ。やっぱり砂浜で聴きたい音楽っていいよね。ガキの頃、まだリゾートホテルが無いビーチで、外人たちがバーベキューしながらビール飲んでるわけよ。ビーチのBGMっていうのはだいたいハワイアンで、記憶でも砂浜で聴く音楽っていうと、ハワイアンかな。そういうのもいずれやってみたいね。

ひがよしひろ「sings KOZA blues」

sings KOZA blues

2014/11/05 RELEASE
PCD-25173 ¥ 2,750(税込)

詳細・購入はこちら

Disc01
  1. 01.熱帯夜
  2. 02.KOZA黄昏に吹かれ
  3. 03.別れはブルースで
  4. 04.月夜の願い
  5. 05.女優
  6. 06.彼女はいい女
  7. 07.語る想いは友からの夢
  8. 08.ヨンナァ

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