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<インタビュー>眞田巧(音楽ディレクター)演者から裏方まで様々な形で関わってきたバンドやアイドルとのストーリー
2011年、眞田巧(さなだたくみ)という男と出逢った。当時、BiSのマネージャーとしてアイドルシーンで頭角を現し始めていた渡辺淳之介(現WACK社長)に紹介されたその男は、the milky tangerine(通称ミルタン)という売れないバンドでベースを弾いていた。話を聞くと、大のハロプロ好きでアイドルトークに花を咲かせたことを憶えている。
あれから12年。眞田巧は様々なアイドル運営のもとで活躍し、シーンにおいて欠かせない存在となっていった。今では音楽制作やディレクションなどを行う会社の社長となり、COMIQ ON!やREIRIEといった魅力的なユニットのクリエイティヴからプロモーションまわりまで手掛ける、敏腕ディレクターとして注目されている。
今回のインタビューでは、そんな彼がファンや演者、裏方など様々なスタンスで関わってきたバンドやアイドル(ハロプロ、ミルタン、BiS、BELLRING少女ハート、クマリデパート、COMIQ ON!、REIRIEなど)とのエピソードを振り返りながら、その稀有な音楽人生について初めて語ってもらった。
名もなきバンドマンだった男が幾多数多の夢追い人たちに必要とされるに至ったストーリー、ぜひご覧頂きたい。
Interviewer:平賀哲雄
YOSHII LOVINSONの「CALL ME」じゃないですけど、オレでよけりゃ必要としてくれ
--初期のBiSとよくバーターでプロモーションされていたバンド・the milky tangerine(通称ミルタン)時代から数えると約12年、音楽シーンと共に歩んできたわけですけど、どんな音楽人生を歩んできたなと感じていますか?
眞田巧:イチからお話しすると、THE YELLOW MONKEY、hide、THEE MICHELLE GUN ELEPHANT、BLANKEY JET CITYに憧れて「バンドやりてぇ」と思ったんですけど、当時は岩手の実家で暮らしていたから田舎すぎてライブハウスもひとつしかないし、バンドマンを見つけることすら難しくて。でも、家庭教師の先生から「高校受かったらギターあげるよ」と言われて、それでギターが欲しくて志望校のレベルを下げて入った工業高校に入ったら、そこでのちのミルタンのメンバーとたまたま会ったんですよね。--そこでまずバンド人生がスタートしたと。
眞田巧:とは言え、田舎すぎてライブをすることすら難しかったから、とにかくライブをやりたいという理由だけで【TEENS' MUSIC FESTIVAL】に参加しようと。で、木枝達哉(g,vo)と柳田久美子(g,vo)ともうひとりドラマーに声をかけて、俺が余ったパートのベースを担当することにして、それがミルタンの前身のバンドなんですけど、あれよあれよという間に勝ち進んじゃって全国大会へ進出できたんですよね。それまでベースを弾いたことすらなかったのに(笑)。で、勘違いしちゃったんですよ。--才能あるんじゃないかと?
眞田巧:それで、東京の音楽の専門学校に入ってみるんですけど、すぐに「あれ、向いてねぇや」と。音楽が好きでやっていたんだけど、学校に行くと音楽が義務になるんじゃないですか。アイドルの子たちがアイドルに憧れていざなってみたら、アイドルであることが義務になっちゃって「めっちゃキツい」と感じるのと一緒だと思うんですけど、それで疲れて実家へ帰って地元の居酒屋に就職したんです。ただ、その店へ専門時代に対バンしていた奴らがツアーの打ち上げで使ってくれて、そのときに「俺、なんで笑顔を振りまいて接客しているんだろう」と思って。それをきっかけに「もう1回、音楽やります」って辞めて上京したら、木枝や柳田もたまたま東京にいたんで、それでミルタンを組んだんです。--そして、あの人と運命の出逢いを果たすわけですね。
--2011年のBiSデビュー以降ですよね。
眞田巧:出逢った頃はたしかまだインターンだったんですけど、そこから成り上がっていく様を見ていて。自分はそんな淳之介さんにめちゃくちゃ気に入られていたと思うんですけど、何も成し遂げられなかったんですよね。ミルタン以外にももうひとつ、淳之介さんプロデュースのバンドをやっていたんですけど、それは淳之介さんが全メンバーをスカウトして「明日からこのバンドで活動してもらいます」みたいな組み方をした、そういう意味ではアイドル的な文脈のバンドで。それでメジャーデビューもさせてもらって【ROCK IN JAPAN FESTIVAL】や【COUNTDOWN JAPAN】にも出させてもらったんですけど、結果的にそのバンドも終わることになってしまって。--そこでバンドマンとしての人生を終えてしまいましたよね。
眞田巧:ただ、そういう経験をしたからこそ、自分の目が付く人たちには同じ道を歩んでほしくなくて。その意識は後々の活動に生きてくるんですけど、とりあえず演者として人の評価のテーブルに乗るのは疲れてしまったから、そのタイミングでは「もう商業音楽をやるのは辞めよう」と。でも、縁があっていろんなアイドルグループさんを観させてもらう中で「これ、バンドを本気でやっている人からしたら割ともったいない事だらけだな」と気付いて、俺に手伝えることがあるのなら手伝ってあげたいと思うようになるんですよ。YOSHII LOVINSONの「CALL ME」じゃないですけど、オレでよけりゃ必要としてくれと。--電話一本でいつでも呼んでくれと。
眞田巧:その感覚は今でも変わらないですね。自分が力を貸してあげられる……俺の経験なんて少ないですけど、でも、アイドルに携わっている奴で淳之介さんにあんなに使ってもらえたバンドマンなんていないし、アイドルみたいな組み方をしてもらったバンドマンもいないし、当然ステージに立ったこともあれば、作曲も編曲も作詞も動画制作もデザイン業務もマネージャーもやらせてもらっていたので、その経験は生かせると思ったんですよね。というか、この12年間、それを必要としてくれるところにしかいないんですよ。俺は「ムーヴメントをつくりたい」みたいな想いは全然ないんですけど、やらなきゃいけないことをしっかりやったら結果って付いてくるよねっていう……淳之介さんの教えをただただ単純に体現してきて、それが今日までの状況をつくってきたんですよね。--表立ってアピールしないから知られていないですけど、あなたほど数えきれないほどの多種多様なグループを支えてきた人はいないと思いますよ。その歴史も紐解きたいのですが、そもそもバンド活動終了後どのような流れでアイドルの仕事が増えていったんですか?
眞田巧:俺、レンタカー屋でバイトしていたんですよ。そこである程度の力を持てるぐらい上手いこと立ち回っていたので、車の手配とか融通を利かせることができて。で、当然運転もできたから、いろんなアイドルの遠征の運転手をお願いされるようになったんですよね。バンド時代も俺が運転して地方遠征していたんですけど、当時はそれに加えて現場に着いたらリハやって、物販の準備して、ライブやって、物販売って、打ち上げして、そこからまた運転して帰るわけですよ。でも、アイドルの運転手をやるようになったら、運転するだけでお金をもらえるから「なんて素晴らしい世界なんだ」と思って(笑)。--その頃は、例えばどんなアイドルのお手伝いをしていたんですか?
--バンド時代の経験を活かす機会が増えていったと。
眞田巧:あと、田中さんは天才肌でメンバー全肯定の人じゃなく良さを伸ばしながら育てていくタイプの方で、そこが田中さんのめちゃめちゃ良いところだと思うんですけど、そういう時に「でも、演者はこういう気持ちになるよな」って過去の自分の経験から俺は分かるじゃないですか。なので、演者と大人の気持ちをちゃんと理解してあげる。それが俺には出来ることなんだろうなと漠然と思ったりして。当時の淳之介さんとBiSの関係性もそうだったと思うんですけど、自分も演者だったときは淳之介さんの言っていることがほとんど理解できなくて、誤解や反発が生まれちゃったりする。今思えば正しいことを言ってくれていたんですけど、それが分かるからこそ、ちゃんと双方の言い分を噛み砕いて伝えたりが俺ならできるのかなって見てて感じてました。- ファンと演者、そのどちらも=みんなが気持ち良くなれる在り方
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ファンと演者、そのどちらも=みんなが気持ち良くなれる在り方
--今振り返ると、最初のBiSってどんなグループだったと思います?
--もうひとつのアイドルのルーツとしては、ハロプロがありますよね。自身がディレクターのような立ち位置になるまでは、周辺からはハロプロ好きなバンドマンとしてある程度認知されてましたし。
眞田巧:ハロプロを好きになったきっかけは、中学2年生のときに隣の席のふみえちゃんが「モーニングコーヒー」のハモりパートをずっと歌っていたんですよ。あの曲は全員のボーカルのミックスバランスが均等だから、その子はずっとハモりパートが主旋律だと思って歌っていて、その違和感のおかげでモーニング娘。を知ったんです(笑)。それで、矢口真里が加入したときに「可愛いな」と思って、さらに「LOVEマシーン」がド田舎でもバカみたいに流行って、そのタイミングでファンになったんですよね。あの曲ってマジで異質だったじゃないですか。当時は宇多田ヒカルや椎名林檎、aikoとかすごく洗練された音楽が主流だったと思うんですけど、その中で「ミャオ~ン♪」ですよ? 今で言う赤羽橋ファンクの誕生の瞬間で、あの衝撃は俺の中でずっと残っているんですよね。--型破りな1曲でしたもんね。
--アイドル戦国時代のはじまりぐらいは、まだバンドがアイドルと絡むなんてあり得ない空気でした。
眞田巧:ただ、それでもハロプロは好きだったし、平賀さん(※この記事のインタビュアー)のモーニング娘。の(高橋)愛さんとか鞘師(里保)さんとかのインタビュー記事も読んでいて。その平賀さんと、BiSとミルタンのバーター仕事で初めて会ったときの打ち上げで「俺、堂々とモーニング娘。が好きって言えないんですよ」って話したら、酔っ払いながら「自分が格好良いって思っているものに対して、腹の底から好きって言えないのはおかしいだろ!」って説教されたんですよ(笑)。それがきっかけで、エヴァのシンジくんみたいに「ここにいてもいいんだ! バンドマンでもアイドル好きって言っていいんだ!」と思って、どこでも堂々とハロプロについて語るようになったんですよね。--良いきっかけになれて何よりです(笑)。
眞田巧:それで、Buono!の弾いてみた動画をYouTubeに上げたりしていたら、淳之介さんから「巧、THEE MICHELLE GUN ELEPHANTみたいな曲書いてよ」って言われて、BiSの「CHELSEA」という曲を書かせてもらって。あれが俺にとって最初のアイドルへの提供曲なんですよ。--そんなハロプロでアイドルを好きになり、渡辺さんや田中さんのもとでアイドルを学んだ巧さんですが、その後、サクライケンタさん率いるekomsに入社されますよね。そこに至るまでのストーリーも聞かせて下さい。
眞田巧:フリーでいろんなアイドル運営と携わらせてもらうようになって、田中さんのAqbiRec専属みたいになった時期もあったんですけど、そこからフリーに戻った瞬間にekomsから「運転手足りないから」って誘われたんですよ。具体的に言うと、当時クマリデパートのマネージャーだった、のちの俺の奥さんとアイドル現場で出逢ったんです。俺は他の事務所のアイドルを手伝っていたんですけど、新宿ロフトの楽屋前の廊下で運営陣同士で談笑していて。そのときの俺は彼女と別れて、向こうも彼氏と別れたばっかりで、そこで「彼氏と別れた?」「彼女と別れた?」「じゃあ、付き合います?」みたいなノリで話していたら、実際に付き合うことになって(笑)。--ノリで結ばれたんですね(笑)。
眞田巧:それまで俺はクマリのことを1ミリも知らなかったんですけど、話を聞いたら、彼女は元々アパレルの店員で、シューゲーザー好きの物販のお姉さんとしてekomsに入ったと。で、紆余曲折あって気付いたらクマリのマネージャーになっていたんですよね。なので、それまでアイドルを見たこともなければ、業界への知見もないから、グループを動かす力を持っていなくて。それで「グループの動きが鈍くてメンバーが悩んでいるんだけど、どうしたらいいか分からない」と相談されたんです。--それでなんて答えたんですか?
眞田巧:「プロデューサーはあの子たちの人生を何とかしなきゃいけないし、プロデューサーだけじゃなくマネージャーもそういうもんだし。その責任を抱えられないんだったら、やるもんじゃない」みたいな話はしました。上手くいくように最大限努力してダメならしょうがないけど、会社自体がそこまでやれているように思えなかったんですよね。そこで彼女に覚悟が決まって、「俺もやれることは手伝う」と。彼女が分からなくて出来ないことで、俺の知識でやれることはやってあげようと思って……--そうしてアイドルシーン初のカップル運営、のちの夫婦マネージメントが誕生したんですね。
眞田巧:初かどうかは分からないですけど、モデルとしてはアパホテルです。クマリデパートじゃなくアパホテル(笑)。--アパホテルがデパートの運営をしていた(笑)。
--その後も様々なアイデアで、それまで停滞気味だったクマリデパートが軌道に乗っていきましたよね。そういう意味では、大事な存在でもあったんじゃないですか。
眞田巧:いや、運です(笑)。まぁでも基本的にメンバーとウチの嫁の力ですよ。俺は1を50なり100なりにする力はあっても、0を1にする力はあんまり持っていなくて。やっぱり0を1にしたのはメンバーだし、嫁の衣装やビジュアルや楽曲発注のアイデアだし、そもそも楽曲自体だったり。で、俺はその1を最大限上手く広げたいと思うタイプだから、メンバーの出来ることがどんどん増えていく中で、何がベストなアプローチか考える役割だったんです。クマリは素直で良い子たちなんですけど、そういう子たちが世間で受け入れられるのってすごく難しくて、やっぱり尖っていたり、センセーショナルなアイドルのほうが注目されやすいんですよね。その中で「クマリの良さを100%引き出すにはどうすればいいんだろう」と。自分はアイドルファンであったこともあれば、演者だったこともあるから、ファンの皆さんと演者、そのどちらも=みんなが気持ち良くなれる在り方をずっと模索していて。--その結果、どこに突破口を見出したんですか?
眞田巧:尖っていたり、センセーショナルなアイドルのほうが注目されやすいのは間違いないんですけど、ただ、当時ってそういうアイドルのほうが主流で出尽くした感じがあって。で、気付いたら、そういうアイドルの現場で疲弊したファンの人たちがクマリの現場が楽しいと来てくれるようになっていたんですよ。クマリのメンバーは素直に一生懸命頑張る子たちだったから、そういうアイドル本来の在り方が逆に希少価値になっていたんでしょうね。だから、奇抜なことも過激なこともしなくていいし、おかしな道を進まなくてもいいし、クマリはただただ真ん中をちゃんと歩くだけで良かったんですよね。その上でクリエイティヴに関しては、サクライさんと様々な作家さんとのコラボをしてもらえたり、CDが売れない時代でいかに付加価値をつけれるかだったり、他にどこもやれないようなアプローチをできていたので、その頃には「これはちゃんと上手くやれそうだな」って思っていました。自分に関わってくれた人たちがどんな形であれ、みんなしあわせになってくれたら
--渋公(LINE CUBE SHIBUYA)ワンマンやZepp DiverCity(TOKYO)に至るまでの全国ツアーを成功に収めたりと、実際にクマリデパートは結果を出していきましたよね。ただ、そのあと、巧さんはekomsを離れて独立します。
--「何言ってんだ?こいつ」と思われるでしょうね(笑)。
眞田巧:頭おかしい奴だと思われてしまう(笑)。実際おかしいと思うし(笑)。嫁にすら完全には理解してもらえてなくて。で、結局、そこのギャップをどうしても埋められなくて。俺は誰かに求められるから頑張れるタイプで、自分の為には何もやれない人間なんで、「何言ってんだ?こいつ」とか思われちゃうかもしれないような組織で俺の手伝えることはもう無いなって。俺らが離れることによってすごい大物ディレクターみたいな人が入ってくる余地もあるし、それでekomsを離れたんです。そのタイミングでは、もうこの業界は辞めようと思っていて、アイドルに関わるつもりもなかったから、またレンタカーの仕事に戻ってもいいなと。--音楽業界から離れようと思っていたんですね。
--自分はもうアイドルと関わらないつもりでいたけど、シーンが眞田巧を必要としていたわけですよね。
眞田巧:かっこいい(笑)。普通だったら誰とも連絡取らなくなったりすると思うんですけど、有難いことに関係者の方々との繋がりが切れなかったんですよ。で、今年で39歳になるんですけど、この歳まで何回も「辞めよう」と思ってんのに気付いたらここに居るということは、たぶん向いているんだろうなと思って。てか、俺にはこれしかないんだろうなと思って、嫁もいるし、40歳になる前に「この業界で死を迎えよう」という覚悟を決めたというか(笑)。あと、ありがたいことに前にフリーになったときより仕事の依頼量も増えて「法人化しないと税金がヤベぇな」という理由もあって会社を立ち上げたんですけど、嫁もウチの社員なんですよ。0を1にするのが嫁で、1を100にするのが俺だから「ふたりでひとつ」って感じで今もやっています。--COMIQ ON!は、事務所はエイジアプロモーションですよね。どのような組み方でプロデュースしていくことになったんですか?
--母体がしっかりしているから、安心して集中できると。
眞田巧:クマリのときは音楽事務所だったので「この子たちが芸能だけで食べていける未来を用意する為には、アイドルをやっているあいだにここまで行かなきゃいけない」ってセカンドキャリアまで考えて動いていたんですよ。それゆえにすごくプレッシャーもかけたかもしれないし、ずっと駆け足をさせていた部分もあったと思うんですけど、今回はエイジアさんがあるから、俺らが全力でCOMIQ ON!を盛り上げて、その中でメンバーが結果さえ出せれば、その先は任せられるじゃないですか。--そのCOMIQ ON!、ブレイクさせられそうですか?
眞田巧:ある程度時間はかかるなと思っています。クマリのときもいろんな人に「良いよね」と言ってもらえるようになったのって、僕が関わって1,2年経ってからなんですよね。でも、僕らに出来ることって真面目にコツコツとやることなので。センセーショナルじゃないし、めちゃくちゃ突き抜けたスキルを持っているわけでもないし、やっぱり素直さだったり、純真さだったり、一生懸命やるところが魅力だと思っているから。で、アイドルは本来そうあるべきだと思っているんですよ。なので、認知してもらえるのにはある程度時間はかかっちゃうのかなと。我々がクリエイティヴに手を抜かなければ結果はついてくるはずなので、なるべく早くメンバーが評価してもらえるように幸せの最大公約数を求めてまた一緒に山登ってます(笑)。--黒宮れい&金子理江(ex.LADYBABY)による新ユニット・REIRIEとは、どのような流れでパートナーシップを組むことになったんでしょう?
--実際、REIRIEと活動してみてどんなことを感じました?
眞田巧:LADYBABYのことは知っていたし、理江ちゃんとれいちゃんのことも知っていたけど、どれだけの伝説を残してきたかまでは自分の目で見てはいなかったから、ふたりのタレント性みたいなものを知ってはいたけどちゃんと理解出来ていなかったんですよね。でも、ちゃんとしゃべって、ちゃんと歌ってもらって、MVの撮影とかもぜんぶ立ち会ってみて……「この子たち、すげぇな!」と思いました。大人になったというのもあるかもしれないんですけど、等身大の部分もありつつ、ちゃんとスゴい。だから「この子たちをちゃんと世の中に評価してもらいたい」と思いましたね。格好良いこと、格好悪いこと、ど真ん中のこと、ど真ん中じゃないこと、自分は今までいろいろやらせてもらいましたけど、そんなのぜんぶ超越したものがREIRIEにはあるというか、「この子たちがずっとしあわせに生きれたら、それで良いじゃん」と本当に思っているんですよ。--境地ですね。
眞田巧:ふたりは一度関係が壊れてしまって、5年ぶりにお互い歩み寄って一緒に活動しているので、それを大人達の勝手で壊したくない。ふたりの仲が壊れるぐらいだったら、ふたりが一緒にいることが否定されるような世界だったら、その物差しに乗らなくていいし。こんな感覚は今まで持ったことないです。とは言え、絶対に売れないムーヴはしないですし売れることがみんなの幸せっていう概念は変わらないですけどね。「このふたりはこんなに素晴らしいんだよ」って世の中に認めてもらえると思ってるし、それがいちばんの武器。これはいまREIRIEのプロジェクトに携わっている全員が思っていることなので、そこがすごく純粋で良いなって思います。--怒涛の半生を語ってもらいましたが、ここから先はどんな人生を歩んでいきたいと思っていますか?
眞田巧:この業界に骨を埋めようと思っているので、今、俺たちを必要としてくれているCOMIQ ON!やREIRIEに全力を注ぐことはもちろんなんですけど、理想としては誰からも必要とされる人間でありたいですね。そんな音楽人生を70歳まで続けたいなと思っています。で、それまで自分に関わってくれた人たちがどんな形であれ、みんなしあわせになってくれたらなって。それに尽きますよ。
Interviewer:平賀哲雄